放 火 魔     のあ いちい 

 

 

 朝早かった。新聞配達が原付を走らせる頃だろうか。辺りが薄明るかったことだけは記憶していたが、正確な時間は知りたくもなかった。電車だとひと駅だが、初電は走っていなかったと思う。できるだけ人の顔は見たくなかったから裏通りを目的の場所まで歩いた。持っているものは布製のずだぶくろとズボンのポケットにはライターが一つ。

 目的のビルの下まで行った時、心臓が激しく鳴っていた。見上げると、一階から三階までは電気が消えていたが、四階と五階は明かりが点いていた。

 四階でエレベーターを降りると、トイレにでも立ったのか人の気配があった。鉄史(てつし)はあわててエレベーター横の暗がりの壁に体を貼りつけた。エレベーター前から店のドアまで直線ではない。途中の廊下が狭いのはそこに荷物が並べて積んであるからだと分かった。段ボールからはみ出しているものを見ると、ごみの置き場所がなくてそこへおいてあると思われるものが三つ並んでいた。

 先ほどの人が戻っていったのを確認すると、鉄史はずだぶくろを開けにかかった。手がガタガタ震えてなかなか紐がゆるまなかった。ようやくペットボトルと発泡スチロールを出した。

 ペットボトルのふたを開けると、でこぼこにしてきた球形の発泡スチロールにガソリンをかけた。足音を忍ばせ急いでごみの入っている段ボールの所へいった。段ボールの間に発泡スチロールを挟むと、上から残りのガソリンをかけ、ズボンのポケットからライターをとりだした。誰か来るかもしれないと思うと、心臓が破裂しそうで、指先がけいれんしたように震えた。

 ボッと音がして壁際が明るくなった時、鉄史はエレベーターに向かって走った。四階に止めておいたエレベーターが一階へいっていた。五階の風俗店の客の誰かが帰ったに違いない。ボタンを押しながら階段のほうが早いかとあせったが、まもなくエレベーターがきた。

 一階に降りると、早くそのビルから遠ざかろうと、後ろを振り返らないよう早足で広い通りを横切った。百メートルほど行った時、新聞配達の若者が原付を飛ばしていった。鉄史のほうは見なかった。さらに行くと、風俗店のビルから客らしき中年男が出てきたが、目をそらして裏路地へ消えた。

 やったぜ、悪い奴は早く死ねばいい。鉄史はつぶやいてちらりと後ろを振り返った。通りのずっと向こうに例のビルが小さく見えたが、煙は見えなかった。

 

新宿でビル火災が発生しました。・・鉄史が火事のことを確認したのは、テレビで昼のニュースを見た時だった。トレーニングシャツとパンツを寝巻きにしていたが、そのかっこうのまま起きぬけてきてテレビをつけた。他人事のようで、ほんとに燃えたんだ、とぼんやりした頭で考えた。

自宅のアパートに歩いて帰り着いた時、母親と妹はまだとなりの部屋で寝ていた。出かける前に寝ていた布団に静かにもぐり込んだ。

・・四階の飲食店から出火したと思われる火は五階に燃え上がり、消防車の放水で火は消えましたが、五階の風俗店の客と思われる四十代の男性が死亡し、四階と五階で合わせて六人の方が負傷して病院に運ばれた模様です。なお、死亡した男性は、逃げ場を失い五階のビルの外の鉄柱にぶら下がって助けを待っていましたが、持ちこたえられなくなって落下し、全身を強く打って亡くなった模様です。出火の詳しい原因は、現在調査中とのことです。・・

四階の経営者の店主は死なないで、五階の客が死亡した。こんなはずじゃあなかった。鉄史は、悔しいという思いと、関係のない人間が死傷したことへの後悔の念がわきあがってきた。

母親の復讐と、悪い奴をやっつければこの世がよくなると単純に思ってやったが、成功とはいえない。しかしこれで、当分店はやっていかれなくなるだろう。

山袋鉄史が高校を辞めたのは高校二年の三学期だった。七ヶ月ほど前になる。

「おふくろ、俺、高校辞めるよ。ルミも今度中三で、来年高校生だろう。俺何かバイトして食ってくよ」

「それなりに勉強して、私立の進学校にも入れる成績だったし・・せっかく入った高校なのに、もったいないじゃない。お母さん次の仕事探してがんばるから、なんとかなるわよ」

確かに、鉄史は中一から中三と成績を伸ばしていき、最後の学期末試験ではクラスで三番だった。負けそうになると、父親のようになってはいけないという思いが心の底にわきあがってきた。

「俺、もう決めたんだ・・」

 鉄史の母親が、長く勤めていた飲食店を辞めざるを得なくなったのは昨年の暮れだった。周囲の雑居ビルはフロアごとの賃借りが多く、客足が悪い月がつづくと店じまいしてよそへ行く。賃借料も高いが、人の集まる新宿駅周辺は当たれば採算が取れる。周辺に新たな飲食店が増えて客足が減ったせいか、もっと手っ取り早く金儲けがしたくなったのか、借金を抱えていたのか、ある日経営者である店主が鉄史の母親を呼んだ。

 調理師の資格を持ち、料理を作ったり給仕をしたりでよく働いた鉄史の母くみ子は、勤めて四ヶ月目にパートから正社員になった。店主は他にも店をやっていて、会社組織にしていたが、どんな店をどこでやっているかはくみ子には知らされなかった。そのバミューダという飲食店には、社員が三人でパートが五、六人いた。店主は調理場の奥の一坪ほどのところに机を置いていたが、店の人手が足りなくなると計算の手を休めて手伝いに出た。

「山袋さん、五年ほどやってもらったんだけど、こちらの都合でね、社員としてやってもらう事ができなくなって・・」四十半ばの店主はそういってすぐに視線をそらせた。

 世の中はテロだ強盗だと殺伐としていて、倒産が珍しくないご時世だから、まったく予期していないわけではなかったが、このところ特に客数が減ったようにも見えないし、いきなり呼ばれてそういわれると、すぐには実感できなかった。

「あの、パートでもだめなんでしょうか?」

 店主は黙って床を見つめたままだ。

「他の二人もですか?」

 一人は三十代の女性で、もう一人のちょうど四十の女性は、数ヶ月前三年程いた人がやめて入れ替わりに来たばかりだ。

「まだどうなるか分からないんだ・・」店主はそういってニヤリと笑った。

 どうなるか分からないとはどういうことかとくみ子は思った。

「もし、ほかの客相手の仕事でかまわないんなら・・」

「ほかの客相手・・」

「収入は今よりずっといいと思うが、いや、熟女や人妻が良いっていう男もいるからね」

「それ、もしかして・・」

「まあ、上の階でやってるのと似たようなものだな」

 上の階は風俗店というぐらいで、くみ子が帰ってからの夜の仕事だから、従業員ともエレベーターの乗り降りでたまに顔を合わせたことがあるだけだった。

「このバミューダも当面つぶす気はないが、品数を増やしても手間ばかりかかってなかなか儲けにならないし、家賃や人件費もかかるから縮小してほかで収入をあげるようにしたいと思ってね」

「ほかにまたそういうお店を出すんですか?」

「いや、ここでね。飲食店が終わってからになる。今いるパートの女の子の中にも、収入が増えるんならやるって子が何人かいるんだ」

「じゃあ、わたしの場合、今のままでここに残ることはできないんですか?」

「すまんが、いろいろあってね・・」店主はそういって眉をひそめた。

 二人の子供がこれからますますお金がかかることを思えば、仕事を辞めるわけにはいかない。しかし生活のためとはいえ、人の道に外れたことで生活したくない。ほかで探そうと心に決めたくみ子は、その日でバミューダを辞めた。

 鉄史の高校も年末の休みに入ったから、高校を辞める話はいったん途切れたが、年が明けてくみ子の次の仕事がすぐに見つからなかったことから、鉄史はパタリと学校へ行かなくなった。

 鉄史が一駅向こうのコンビニでアルバイトを始めたのは、二ヵ月後の高校が春休みに入ったときだった。高校に行かなくなってから友達からかかってきた電話には、ちょっと調子が悪くて休んでる、とだけ応えていた。が、休みに入り誰か尋ねてきたりしたら困るということもあり、住まいから一駅ずらした場所でアルバイトを始めた。コンビニの経営者には、W高校の生徒だということにしておいた。高校の担任にはくみ子が事情を説明したが、しばらく様子を見るということで、退学届けは出さずじまいだった。

 くみ子は当面失業保険で何とかやっていたが、ハローワークへいったり新聞で仕事を探しても、調理師だけでほかに何かの資格や技術があるわけじゃなし、四十過ぎていると、なかなか正社員で条件の良い仕事が見つからなかった。保険の期限が切れる前に仕事が見つかればいいともいえるが、そのままずっと良い仕事が見つからないかもしれないという不安も募った。

 鉄史はそんな母親を横目で見ながらコンビニのバイトを続けていた。週六日、夜の時間のほうが時給が良いことを知り、鉄史は明け方までやって昼過ぎまで寝ていた。

 高校の夏休みが終わり、二学期が始まると担任から連絡が入った。学校側の配慮で何科目かレポート提出することで三年生にしてもらえたものの、欠席日数からして今から登校しても留年扱いになることは分かっていた。後輩と一緒に同じ学年を二度やる気はない。しかし現在の自分にいらだたないといったら嘘になる。そのままでは大学受験するにしても二、三年浪人する格好になるだろう。独学で大検とってとも考えたが自信がなかった。

「山袋くん、学校始まったでしょう」

 バイト先のレジのおばさんからいわれた時、鉄史は、だからどうだっていうんだよ、と喉もとまで出かかった。高校生だと伝わっていたから、パートのおばさんにすれば特にいやみでいったわけではなかったが、鉄史の頭に血が逆流した。

「ああ、それ縦に入れないで中の汁がこぼれるといけないから。これじゃなくてもう一つ大きい袋に入れてもらえる・・」

 先のレジのおばさんが帰ってから交替した鉄史は、いつになく客から注意された。ふたたびカッとなって釣りを投げるように相手の手に渡した。

「まったく、この店はどういう教育してるんでしょうね!」

おばさん客が聞こえよがしにそういって立ち去ると、向こうの食品棚の前で品物をチェックしていた三十代の店長が、鉄史のほうをにらんだ。後から店長に注意されると、そのいらだちがいつしか父親への憎悪と重なった。

そんなことがあった翌日から鉄史はバイトに行かなくなった。

 母くみ子は良い仕事が見つからなかったが、失業保険が切れたのでとりあえずパートで代々木駅側の和食料理店で働き始めた。

「わたしが働いてたお店、バミューダ、火事になったのね」

「ああ、今日学校で友達が言ってた」高校一年のルミがご飯を口に運びながら言った。

「鉄史、一緒にご飯食べない!」

 鉄史は聞こえていたが、布団をかぶってしまった。バミューダでの光景が何度となくよみがえってきていた。仕返しをしてやったという気持ちから、大変なことをしてしまったという思いに変わっていた。

 母親からバミューダを首になったことを聞かされた時は、困ったという気持ちになったが、仕返しをしてやろうとは思わなかった。しかし高校に行かなくなり、毎日仕事を探して面接に歩いている母親を見ていると、何で自分のうちがこんな風にならなきゃいけないんだと思い始めた。

バミューダの店主のことが、自分たちを捨てて出て行った父親への憎悪と重なった。

 母くみ子と父親の山袋浩三が離婚したのは、鉄史が小学校一年、妹のルミが保育園のときだった。鉄史が小学校へ上がる二年前、両親は八王子に新築の建売をローンで購入した。浩三は高田馬場の会社へ、そしてくみ子は駅前の喫茶店でウェートレスをして家計を助けた。家のローンの返済に追われる多忙な日々だったが、日曜日には家族の団欒もあり、幸せに見えた。浩三に好きな女ができたわけではないが、相性が悪いというのか夫婦喧嘩がたえなくなり、両親は離婚することになった。購入して三年目の家を急きょ売却し、数百万の借金が残った。借金は浩三が払うことになった。くみ子は子供のことを考えて姓は変えず、二人の子供を引き取ってアパートを借りた。現実にはそれまで以上に大変な生活が待っていた。

 コンビニをやめた鉄史は、心に溜め込んだ不満が頂点に達していた。「くそ! うちの母親を売春と引き換えに首にしたのか、あいつ許せねえ・・」今になって怒りの感情がむらむらこみ上げてきた。

鉄史は、高一の夏休みに池袋の芸術劇場へコンサートに行ったときの帰りに、偶然バミューダの経営者を見かけた。

小学校六年のとき、妹のルミと母親に連れられてバミューダで食事をしたとき、初めてそこの店主に会った。二度目は祭日で学校が休みだったので、母親に頼まれて忘れ物を届けにいった。そのときもそこで食事をして店主に会った。

池袋の店の前で、従業員と思われる女性が、社長、社長と呼びながら仕事の話をしていたが、まもなく店の中へ消えた。鉄史はそのとき、母親がバミューダの店主は他にどこかで別の店もやっているらしいといっていたのを思い出した。そこは間違いなく風俗店だった。

テレビでニュースを見てから、鉄史はくみ子やルミと一緒に食事をしなくなった。3DKのアパートだから、隣の部屋の物音で互いの様子はだいたい想像できる。くみ子は、鉄史がバイト先で何かあったのだろうと思ったが、高校も自分が仕事を解雇されたことがもとで行かなくなったから、しばらくそっとしておこうと思った。

鉄史は、母と妹が出かけると起きだして食事をした。母親が用意していってくれたものは残さず食べ、食器もちゃんと洗った。

バミューダがその後どうなったか気になり、おそるおそる新聞を広げた。と、突然電話が鳴った。心臓がぎくっとした。どうしようか迷ったが、四回つづけて鳴った時受話器に手をやった。

「・・鈴本だが、バイトどうするんだ? じゃあ辞めるんだな。今月のバイト代、月末に印鑑もって取りに来るように、じゃあな」

 コンビニの店長からだった。鉄史は一瞬警察かと思い身の縮む思いだった。

 新聞には、隅の方に小さく、新宿の雑居ビル火災は放火の疑いが濃厚と出ていた。あの日の新聞に、死亡者の名前と負傷者が運ばれた病院名が載っていたが、鉄史は怖くて読めなかった。病院のベッドで、包帯でぐるぐる巻きにされた負傷者の姿が想像された。その中に、あのにやけた顔の奥に鋭い目を光らせていた店主もいるのだろうかと思った。

 放火は刑が重いと聞いたことがあった。俺は、これからどうなるんだろう。『罪と罰』のラスコーリニコフのような心理状態にはなれないんだ。考えてみれば、あの店主はどれくらい悪いといえるのだろうか。体を売って金をもらう。その手伝いをして金をとる。買う人間がいるから売る人間がいる。その逆もいえるわけか。しかし、今となっては、あの店主より俺のほうが悪くなってしまったのか・・。と、玄関のチャイムが鳴った。午後二時、誰だろう?

「やまぶくろさーん! 宅急便でーす。いないんですか・・」配達員のドアをたたく音が頭の芯に響く。ちきしょう、うるせえな・・。鉄史は仕方なく玄関へ行った。

「ああ、いたんですね。よかった。ここへ印鑑もらえますか」

 鉄史は、いつも母親が電話の横の透明ケースに入れている印鑑をとりにいった。心臓がバクバク鳴り、印鑑を持つ指先が震えた。母親が通信販売で注文した鉄史とルミの靴下だった。

  鉄史は内面では毎日びくつきながら、母や妹には精一杯平生(へいぜい)をよそおっていた。そうしてあの日から十日たったが、鉄史の家に警察や刑事が来ることもなかった。しかし、ずっとそのままでいられないことは鉄史が一番よく知っていた。何よりそのおびえる心、追われる気持ちを抱え込んだままで毎日を送らなければならない。そして鉄史の心をあの日に呼び戻すことが起こった。

 「おかあさん、また新宿できのうの夜中に火事があったよ。バミューダから三百メートルぐらいのとこだって・・」

  新聞を取ってきたルミの声が、寝ている鉄史の耳に届いた。

 「あっ、ほんとだ。また一人亡くなって、五人病院に運ばれた・・トライアングルってお店、きいたことがあるわ」

「おかあさん、また放火かなあ」

「さあ・・」

  鉄史の心臓が激しく波打った。しかし、今度は俺じゃあない。鉄史はそうつぶやき、もし放火だとすれば自分と同じ立場の奴がいるんだという変な共通意識が起こった。しかしそのすぐ後から、もしそれも俺の犯行だと思われたらどうしようという思いが追っかけてきた。黙っていれば分からないかもしれないという思いと、そのまま良心の呵責にさいなまれ続けていくことの苦しさが戦っている。

  それにしても、今までにこれほど家族の絆の重さを感じたことはなかった。自分が自首したらこのうちはどうなってしまうのだろう。放火犯で、死傷者まで出してしまった家になってしまう。これから先、俺だけが罪を背負って生きていくのならまだしも、母や妹まで放火犯の家族という汚名を背負っていくことになる。安心してこのアパートに住めなくなる。ああ、どうしよう・・。

  翌日、鉄史は母と妹が家を出たのを確認すると、朝ご飯も食べずに家を出た。外の景色が変わっていないのがかえっておかしく思えた。代々木駅まで歩いて十分、自動券売機にコインを入れて切符を買った。できるだけ人と目線をあわせないように改札口へ行った。その時間に鉄史の通っていた高校へ行く生徒はいないはずだった。

ドアのそばに立って窓の外へ目をやった。取りに行かないと怪しまれるかもしれないと勝手に思った。再び電話をかけてこないかもしれないが、掛けてくると面倒だし・・。俺が放火犯だと店長が知っているわけでもない。

千駄ヶ谷の駅から五分、高校生になり初めてやったバイトだ。鉄史は指を折り、五ヶ月弱かとつぶやいた。ふっと涙がこぼれそうになった。

鉄史がコンビニのドアを押すと、レジの横にいた店長と目が合った。レジにはおばさんのバイトがいて、客の品物を袋へ詰めている。店内には客が五、六人。

店長は奥の事務所を指さした。鉄史は店長の後から、両側に品物が並んでいる間の通路を歩いていった。

「印鑑持ってきたか・・」

 鉄史は、ジャンパーのポケットからティッシュにくるんだそれをとりだした。落ち着いている自分が不思議だった。

「じゃあ、また、できそうになったらきなよ」

「はい・・」鉄史は茶封筒を受け取り、中の硬貨が動くのを指先で感じた。

 頭を下げてドアの外に出た。レジのおばさんの視線を背中に感じた。放火犯にも金が必要だ。放火犯も食べないと生きていかれない。当たり前のことが妙に新鮮に感じられる。

「おお、やま!」代々木駅で降りようとした時、後ろで呼び声がした。しまったと一瞬思った。

「おい、今日学校休んだのか。俺、親父が事故にあっちゃってさあ、病院へ行ってきたとこなんだ」

中学のとき同じクラスになったことがある北田亮だった。亮は鉄史のように都立高でなく電車で二十分も乗る私立へ行ったから、同じ街に住んでいても高校へ入ってからは一度も会ったことがなかった。

「事故って・・」

「いや、交通事故で、足を骨折しちゃってさあ」

 鉄史は駅前で亮と別れた。亮の家は鉄史のアパートとは反対方向だったが、父親はコンピューター会社の社長で立派な一戸建てに住んでいた。中学のとき一度だけ遊びに行ったことがあり、そのときに亮の父親に会ったが、丸顔の優しそうなおじさんという印象だった。

 火事に遭ったんじゃなくてよかった・・。鉄史は久しぶりで友達に会った感じがした。今度の火事のこと、亮に話したらなんていうだろう。直ぐ自首しろっていうだろうか・・。俺の家も、親父がちゃんとしていれば、俺もこんなふうにならなくてすんだかもしれない。

 三百メートルほど歩いたとき鉄史はふいにきびすを返した。駅のそばのレコード店でCDを買っていこうと思った。茶封筒をあけ中をのぞいた。三万六千円ほどある。

 店には学校をサボったのか、中学生の女の子が三人いて、一人は声を張り上げて携帯電話で誰かと話していた。

 家に帰ると、午前十時を回ったところだった。買ってきたCDをとりだしてセットすると、鉄史は母親が用意していってくれた納豆ご飯を食べた。

・・空が泣いてくれるなら、星が嘘をついてくれたら、あーあ、僕は冬に終わりを告げる君の花になりたい・・風がしかってくれるなら、砂が過ち・・ビギンのニューシングル「灯り」の歌声がもの悲しく腹の底に響いた。ご飯を食べ終えても何度も繰り返して聴いた。

 ああ、母親を助けようと思ってしたことが、とんでもないことになってしまった。自分のおかれている状況が、なんて重苦しいところへきてしまったことか。

 五時半をまわったとき、妹のルミが帰ってきた。今年の春から高校生になったルミは都立だったが、商業高校の情報科だったので普通科の鉄史とは別の高校だった。

 あの日以来、鉄史はずっと母や妹を避けるようにしていたが、その日はルミが帰っても隣の自屋へ行かなかった。

「ルミ・・」

「何、お兄ちゃん?」

「俺、最近ちょっとおかしく見えないか?」

「うん、バイト先で何かあったのかなあって思っていたけど。・・わたし、自分だけ高校へいかせてもらって、悪いなって思ってる」

「おれ、親父がいてくれたらこんなことにならなかったなと思ってるよ・・」

「そうだけど、お父さんも、会社で思うように営業成績上がらなくて、ストレス溜め込んで、それで当たるとこがなくてお母さんと喧嘩したんだと思うわ」

 そうか、何も分かってないと思っていたが、その点ルミのほうがずっと大人かもしれない。しかし、俺はどうすればよかったというのだろう。おれが戦っていた相手は、バミューダの店長だったのか親父なのか、それとも貧乏なのか。金持ちから金を奪って、お袋や貧乏人にあげるほうがずっとましだったのか。俺は感情を抑えられなかったが、今になって自分も世の中も見えてきた気がする。

「ルミはどんなことがあっても高校を卒業しろよ」

「わたしお兄ちゃんに悪い気がする」

「俺はもう、やり直しがきかない・・」

「それ、高校のこと?」

「それもある・・」

 鉄史はここへきて久しぶりに妹と会話らしき会話を交わしたと思った。しかしこの先のことを話したら、この家は崩壊してしまう。鉄史はふと、父親のようにはなりたくないと思いながら、自分のこの弱さは父親ゆずりなのかもしれないと思った。今となっては、その父親にも顔向けできないことをしてしまった・・。

 母くみ子が戻り、その夜は久しぶりで三人で食事をした。

「鉄史、お代わりは?」鉄史は黙って首をふった。

 

あの日から三週間たった祭日の朝のことだった。朝飯を食べおえたくみ子は、後片付けをルミに頼んで家を出た。鉄史はまだ寝ていた。ルミが台所に立つと電話が鳴った。

「山袋さんのお宅ですね。くみ子さんはいらっしゃいますか?」

「母は、仕事で出かけましたけど・・」低い声の相手は刑事だった。

「バミューダの火災の件で、参考までにお聞きしたいことがありましてね・・」

 ルミはテレフォンリストを広げ、くみ子の働いている店の名前と電話番号を伝えた。受話器を置いてから、店の名を聞かれたから店の名と電話番号を伝えたが、携帯の番号を伝えるべきだったろうかと思った。急いで母の携帯番号をプッシュした。

 鉄史は隣の部屋でルミの声がすることでその日が祭日だと知った。ずっと寝ているわけにもいかず、起きだして顔を洗った。寝ていても追われる夢を見てたびたび目覚めた。

 黙ってご飯を食べていると、ルミは自分の部屋へ行った。ラジオから音楽が流れていたが、鉄史は新聞の記事が気になった。食べおえるとすぐに新聞をめくった。

雑居ビル違反一棟当たり5.5件の見出しに続き、総務省消防庁が全国の消防本部が行った雑居ビル一斉立ち入り検査の結果、特に防火管理面での違反が多く・・防火設備面での不備も目立ち、自動火災報知設備に違反のあるビルが40%、避難器具に違反があるビルは42%にのぼった。となりのページに目をやると、横浜で放置車両の連続放火・不審火で県警は不審者の割り出しに全力を挙げている、という記事が大見出しで載っている。下へ視線を移していくと、勤務先の居酒屋放火容疑で逮捕、仕事のストレスで新聞紙にガスライターで火をつけた。一枚めくると、左下に、新宿の連続火災は、二件とも放火の線で関係者から事情を聞いている、とあった。

 このままバイトをしないで家にいれば、高校を辞めた意味がなくなってしまう。しかし、こんな状態のままアルバイトに出かけることは俺にはできない。

「どうしたらいいんだ」

「お兄ちゃん、今何か言った?」

「い、いや、な、なんでもないんだ・・」

鉄史は頭をかきむしる仕草をしたが、ルミにはそれ以上なにも話せなかった。高一のとき、一人だけ父親がいない親しい友達がいたが、今となっては別世界の人間に思えた。

くみ子が戻り、三人で食事をした。鉄史は母と妹に視線を合わせないようにしていたが、母と妹は目で何か合図していた。

食事がすむと、鉄史はテレビを見ないで部屋へ行った。仰向けに大の字になって壁のカレンダーを見た。今日は体育の日で明日は火曜日か、とつぶやいた。鉄史は起き上がって机に座ると、買ったきりで一度も使ってないノートを開けた。入口のふすまの隙間からくみ子がのぞいていたが、鉄史は何かに憑(つ)かれたようにボールペンを走らせていた。

ルミは母の携帯電話を借りて表へ出た。両親が離婚したとはいえ、浩三はルミと鉄史の血のつながった父親だ。

浩三は離婚後も高田馬場の教材販売の会社に勤めていた。別れた頃は会社の危機で、倒産寸前だった。当初は語学教材のみを扱っていたが、窮地に立たされたことが幸いして、社長の企画で行政書士をはじめとした国家資格の教材を扱うようになった。不況でリストラが多い昨今、資格を取って転職を考える人が多いのか売り上げが急に伸びた。浩三の成績も伸び、それで借金も全額返済することができた。

くみ子と分かれて十年たち、社員が三十人ほどの小さい会社ではあったが、高卒の浩三も課長になった。住まいは高円寺駅から歩いて十分ほどの所に、1LDKのマンションを借りていた。

浩三は、別れた頃は営業成績が上がらず、ノルマ給が付かなかったからわずかな手取りしか貰えなかった。くみ子に給料が少ないことを突かれ、感情的に離婚を口走ってしまった。当初はとにかく早く借金を返済し、鉄史やルミの教育費をくみ子に渡してやりたいと思った。そのために住まいも近い所にした。しかし一夜にしてお金が出来るわけもなく、転職も考え、仕事の合間に何度も面接にいったが、いい仕事がなかった。そんなだったから、再婚を考える余裕などなかった。

ルミから携帯に電話が入った時、浩三はその日の日報をつけていた。

「あっ、これ山袋さんの携帯ですか? ルミです。携帯の番号変わってなくてよかった」

「なに、ルミか、久しぶりだな。みんな元気でやってるか・・」

「お兄ちゃんのこと、お母さんから聞いてる?」

「鉄史に、な、何かあったのか?」

「ああ、その前に、わたし高一になったのよ。知ってたの?」

「あっ、そ、そうだよな。ルミちょっと待って、今仕事中だから、ちょっと表へ出るから・・よし、つづけていいぞ。それで鉄史は・・」

「お兄ちゃん、高校辞めていま家にいるのよ。それで、ちょっと気がかりなことがあって電話したんだけど、お父さん、いま誰か女の人と住んでるの?」

「と、突然なんだよ」

「住んでるの、いないの?」

「誰とも住んでいないよ」

「ほんとに、良かった。それじゃあ、私たちのこと考えてもらえるよね」

「それはお前、俺の子だから、お前たちのこと忘れたことないよ・・」

 ルミが家に入って三十分ほどたったときだった。

 ジャンパーのチャックを胸元まで閉めた鉄史が、いつものスニーカーをはいて表へ出て行った。

 ルミと目で合図したくみ子は、急いで鉄史の部屋へ行った。いやな予感がした。わが子を見てきた直感だった。

「ルミ携帯もって、後をつけて、何かあったらすぐ電話して・・」

 先ほど鉄史が書いていたノートは、机の一番上の引き出しに入っていた。広げると、一万円が三枚あり、その下に文字が並んでいた。

 

   お母さんへ

 お母さん、バミューダに放火したのは俺だ。もしかしたら気づいていたかもしれないね。トライアングルの火事のことは何も知らない。お母さんに、あの店で売春しないなら辞めてもらうというようなことを言ったあの店主を俺は許せなかった。それがもとで、俺も高校を辞めることになったしね。

 俺、お母さんには言わなかったけど、あの店主が、池袋で風俗店を経営してることを知っていたんだ。だいたい、お父さんがしっかりしていてくれたら、こんなことにならなかったと思う。しかし、今では俺はくらべものにならないほど悪いことをしてしまった。お父さんのことは、ルミのほうがずっと大人の目で見ていることが分かった。

 俺は、ついこの間まで、あんなことをする前まで、高校を出たら大学に進み、将来は会社の社長になって、家を建て、お母さんに楽をさせてあげたいと思っていた。

 しかし、もう駄目だ。俺は放火犯で殺人者だ。これ以上、生きていることは出来ない。

 お母さん、ルミ、そしてお父さん、後はよろしく頼みます。

                            さようなら

                                    鉄史  

 

 くみ子はノートをそのままにして急いで電話機に走った。

「ル、ルミ、やっぱりお兄ちゃんだった。いま、ノート見たの。そ、それで、いまどこ? お母さんもすぐ行くから・・」

 くみ子は店に来た刑事の質問に応えているうちに、近頃の鉄史の言動からふと思い当たる節があった。鉄史が明け方早く帰ったあの日、くみ子は目覚めていた。問い詰めて間違っていたら鉄史を傷つけることになると、様子を見ることにした。

「お、お母さん、は、早く!」

 夜の九時を回った頃だったろうか、通りは街灯で薄明るかったが、空は曇っていて月も星も見えなかった。懐中電灯を片手に、くみ子は公園の入口で合図しているルミの所へ走った。鉄史の家族が住んでいるアパートから三百メートルほどいった所に十四階建ての巨大なマンションがある。三年前にどこかの会社があったところだが、倒産したのか取り壊され、周囲の空き地も買収され、そこに巨大なマンションが建った。建物の中には医院や飲食店もあり、周辺の住民が頻繁に出入りしていた。

 鉄史がそのマンションへ入っていく所を、数十メートル後方から、くみ子とルミは走りながら確認した。二人が入口に着くと、鉄史が乗ったエレベーターだろうか、上にあがっていくランプが点灯している。二人は反対側のエレベーター乗り場へ走った。

 十四階でエレベーターを降りた二人は、屋上へ向かう階段を走って上がった。上がりきった時、ルミの携帯が鳴った。

「そう、メゾン・ド・アベニューの屋上・・」

 屋上への出口にライトが点いていたが、ほかに明かりは見えなかった。ポンプ室の横をぐるりと回ると、植木の鉢が一面に並んでいる。二人は暗がりの中で鉄史の姿を探した。下のほうに街の明かりが見えた。

「鉄史! どこにいるの? お母さんよ・・いたら返事をして」

「お兄ちゃん!」

 くみ子は懐中電灯をつけると、歩きながら広い屋上の端の欄干にそって照らしていった。

 すると、大きなテレビアンテナの向こうで、胸の高さほどの金属製の手すりに両手をおき、下を見ている鉄史がいた。

「鉄史! お父さんだ。俺が悪かった。お前をこんなところまで追い込んでしまったお父さんが・・」息を切らせて駆け込んだ浩三の声が、悲しみでふるえていた。

「お、お父さん・・お、俺、とんでもないことをしてしまった。俺、お父さんを恨んでいた・・」

「鉄史、悪いのはお前だけじゃない。俺が生活の援助をしてあげていれば、お母さんが苦労して働かなくても、お前が高校を辞めなくても、あんなことをしなくてすんだんだ。もう、自分を責めるな。俺たちみんなで、お前のやった罪を背負っていくよ」

 浩三は、くみ子とルミを見た。

「鉄史、お母さんも悪かったわ。仕事に追われ、鉄史の気持ちを察して上げられなかった自分が、親として悔しいわ」

「お兄ちゃん、やり直そう、罪を償って、どんなにつらくても、みんなで・・家族だもん」

 鉄史の泣き声が、静まり返った屋上で虫の声のように聞こえた。

  

「先月、新宿で火災が二度発生しましたが、実はその最初のほうの犯人という少年が、本日の朝、両親に伴われて警察に自首してきたということです。それで、犯人の少年を知る人の声を聞きましたのでお聞きください」

「うーん、おとなしくて、目立たないやつだったな。・・あいつがやったなんて、ちょっと信じられないな」

「中学まで一緒だったけど、勉強も出来たし、やさしいところがあって・・彼がやったなんてショックだなあ」

「まあ近所だから、小学校のときから知ってるけど、道で会ってもちゃんと挨拶するし、お母さん思いの優しいお子さんだったですけどね。小さいときは妹さんと仲良かったしね。何があったか知らないけど、信じられないことです。ほんとにそうだとすれば、おとなしい分だけ、ストレスを溜め込んでいたのかもしれませんね」

 しかしそれから数分後、新宿駅前のビルの正面に設置されている超大型テレビの画面に、緊急ニュースの字幕が流れた。

あろうことか、アメリカのホワイトハウスに、テロリストの何者かにより、航空機から核が投下された、と・・