僕の居場所

 

                                   のあ いちい

 

 

横浜駅西口より歩いて数分。東急ハンズの前。頭に半球形の青いキャップを被り、目の周りに大きな円。鼻の頭を赤く塗り、長いひげが三本ずつ両側の頬まで伸びている。上下続きのいかにも間に合わせに作ったと思われる青い衣服の胸には白くて丸いよだれかけ。その上には一様に鈴がぶら下がり、お尻には赤いしっぽついている。 

背丈や体型はばらばらだが紛れもなくドラえもんだ。数えてみると総勢七人。  

通行人や買い物客は、最初はストアのアトラクション位に思っていたが、どうも違うらしいといった表情で足を止めたり振り返ったりしている。ある者は、テレビか映画の撮影かと辺りを見回すが、カメラ機材らしき物は見当たらない。

ドラえもんたちはみな白い手袋をした手に紙袋を抱えている。姿からだつきから見て、七人のうちに若い女性が二人と年配の男性が一人いる。

と、ドラえもんたちは客の通路を塞がないように、ストアの入口から少し離れた路の端に一列に並んだ。通行人たちは何事かと遠巻きに眺めている。

すると、三十前のドラえもんの一人がふくれた紙袋から茶色の固まりを取り出して口に運んだ。ドラ焼きだ。続いてほかの者も同じように袋からドラ焼きを手にとって口へ運んだ。七人全員がドラ焼きを食べだした。

と、ストアの脇に立っていた背広姿の三十男がドラえもんたちの方へ近づいた。首からデジカメをぶら下げている。

「ドラ焼き一つ頂戴!」

男は手を差し出して一番端のドラえもんに裏返った大声で言った。

「オマエにはあげない!」

「そんなにいっぱいあるんだから、一つぐらいいいじゃないか」

 ドラえもんは今度は顔を横に振った。男は隣のドラえもんの横に行った。

「頼むから一つ頂戴よ!」

 男は先程同様に手を差し出して大声で言った。

「オマエにはあげない!」

 女性の声だが、テレビでよく聞くドラえもんの声で応えた。

 男は次つぎと隣のドラえもんに同じように手を差し出して裏返った大声で言った。

 だが、同じように断られた。

 男が最後のドラえもんに行こうとした。

「あっ、ドラえもん!」三歳ぐらいの男の子が母親の手を振り切って最後のドラえもんに駆け寄った。

「ぼく、ドラ焼きほしいのか?」

テツは、顔の引きつりを気にしながら言った。

男の子はこっくりした。いつのまにか大きな人垣が出来ている。一人だと超恥ずかしいが、仲間がいるので心強いとテツは思う。

水曜の午後だから、やはり小さい子を連れた親子連れが多いな、とテツは思いながらドラ焼きを一つ手にとって男の子に渡した。男の子は両手でドラ焼きをにぎり母親の方を見上げた。

「お母さん大丈夫、毒なんか入ってないから安心して下さいよ」

テツは怪訝な顔で見ている母親を見て言った。

裏返った大声でドラ焼きを所望していた男はその様子をデジカメに納めている。

 

「きのうはお疲れさま」

 河島が先にエレベーター前で待っていた所へ先輩社員がやってきた。

「お互いさまですね」

河島は、先輩社員だが六つ年下の時田かおるに応えた。続いて付き添い役の三田光一がやってきた。

「どうも・・」河島は三田と顔を見合わせて苦笑いした。

「デジカメの写り具合、バッチリでしたよ。次長、あれを御茶ノ水の方にメールするって言ってましたよ」

「社内メールか。ペイントがなかなかおちなくてね」河島は頬をさすった。

狭いエレベーターがのろのろと上がって行き、最上階の七階に着いた。関係者以外立ち入り禁止≠ニいう貼り紙がしてあるドアを開けて入りタイムカードを押す。幅の狭い縦長のフロア。通路のスペースと天井部分を開けて、真ん中に間仕切りがある。奥の道路側に東京からの応援事業部隊があり、すでに五、六人いたが、手前には十八歳の竹華ルミと富田めぐみ、それにここへ来る前は通関関係の下請け会社で荷物運びをやっていたという河島と同い年の神保昌男が袖なしの狭い机にいた。竹華だけは罰ゲームに勝ったので昨日の定休日に休んだが、後の者は出てきたメンバーだった。

河島徹は二十九歳になったばかりだが、一ヶ月前に初めてここへ来てからのことを鮮明に覚えている。・・

 

河島徹は、国立大農学部を卒業して食品会社の製造部門に就職した。三年目に主任になったのは良かったが、丸六年になる前に会社が倒産した。

就職して三ヶ月は母の住む平塚の団地から通勤した。残業が多く帰宅時間が夜遅くなることから、比較的職場に近い横浜市内に転居した。周りには畑が多い地帯で、築20年になる2DKの賃貸マンションで家賃は7万円だった。

倒産の原因はキャベツの手動式千切り機のセラミック刃が欠けて紛れ込んだことに始まった。殺菌洗浄や脱水時にも気づかなかったし、袋詰めされた段階で通す金属探知機でも警告音が鳴らなかったから、誰もが大丈夫だと思っていた。悪いことは重なるもので、まもなくして白菜と春菊にも青虫と毛虫が紛れ込んだ。消費者から苦情が入り、出荷先から注文がこなくなった。・・

年が明け、河島はハローワークに行くための書類待ちをしていた。 

雇用保険被保険者離職票1・2の入った封筒が着いた同じ日の新聞折込で、河島は栄翔塾の募集を知った。

 

《仕事内容》

“予備校の案内や教室見学に来る生徒・両親等に予備校のシステム

内容を楽しく分かり易く説明する仕事”“初心者大歓迎! わか

りやすく徹底的に細かい研修を行いますのでどなたでも成功する

仕事です”

月給▼20万円〜80万円

資格▼特になし

時間▼十一時〜・十三時〜(実働7h)

休日▼隔週週休2日制、BIG休暇あり

待遇▼早期昇給昇格あり、賞与年2回、各種社会保険完備

応募▼電話連絡の上、履歴書持参。入社日応相談。

資格は特にもうけていないし、給与も悪くない。河島は早速電話した。ハローワークに行くのを辞めて面接に行った。

 文面から、広告募集で来塾した高校生や父兄に、入塾の案内をする仕事だろうと思った。給与の上限が高いのは、多く入塾させた場合にノルマ給が加算されるからだろう、と。

河島は約束の時間に余裕を持って行こうと、翌日の午前十時に家を出た。横浜行きのバスに乗り、渋滞しなければ十五分余りで着くから、家からだと三十五分で着くだろう。通りの反対側に大きな歯科のビルがあるというから見当がついた。

バスを降りて駅の方向に少し歩くと、“現役高校生のための栄翔塾”という袖看板が通りの向こうに見えた。

バス通りに面していたが、両側のビルに押しつぶされた格好の細長い直方体のビルだ。信号待ちしてから通りを横切り、ビルの側までゆっくり歩いていった。ガラス下半分がグレー色に目隠しされていたが、上部は透明ガラスで囲まれているから中が見えた。

透明ガラスのドアを押して入ると、細い通路が突き当りのエレベーター前で見えなくなっている。通路の途中右側にドアがあり、目の高さから受付とラウンジが見えた。高校生たちがそこで飲食したり予習したりできるようにシンプルなテーブルとイスが置かれていた。

受付で用件を伝え、5分ほど待ってからエレベーター乗り場に行くと、右側の壁にビルの管理上から、栄翔塾の生徒は階段を利用すること≠ニいう貼り紙が目に留まった。

二十前の受付の女の子に3階へ案内され、狭い通路の途中のドアを開けて、狭い部屋の小さい机でアンケート用紙を渡された。 

記入を終えて二十分程待った。

大輪です」

ドアが開き、背はさほど高くないが角ばった顔のがっちりした体つきの男が現れた。名前から電話で問い合わせたときに出た男だと分かった。河島より少し年上だった。渡された名刺には次長とあった。

「募集では明示してなかったが、電話営業のえぐい仕事だ・・」

 現役高校生のみを対象にして名簿で電話して、生徒や親子を栄翔塾へ呼び、内容を説明して、高校生が入塾すると役務が発生するので、担任になって応援する仕事だという。

「ただ、塾とか予備校といっても栄翔企画という株式会社で東京の本社では歴史書の出版もやっているが、ここでは生徒集めのためのバリバリの営業だから、オーバーなこともいっぱい言うんだ。生徒を入れるのが仕事だから・・」

 河島にとっては初めての仕事で具体的な内容は分からないので、質問のことばも浮かばずに黙って相手の話を聞き、目を見返した。ただ、成果が出れば給料も前職よりずっと良い。

「やってみる意思はありますか?」

ことばに勢いがあり、相手の視線が真っ直ぐ河島に迫ってきた。電話でどのようにやるかは分からなかったが、やる意思があれば採用するというニュアンスだった。イエスかノーしかない。

「やります」と応えていた。そのあと、月曜から金曜日までは午後一時から九時で、土日は午前十一時から午後九時勤務だが、間に休憩時間が何度もある、という説明を受けた。基本的には水曜が定休日で、隔週2日休みがある、と。前職も土日に出ることが多かったが、ここでもそうか、と思いつつ仕事だから仕方ないか、と自分に言い聞かせた。

「では、この次に研修に来るときに住民票を一通持参してくるように・・」

 翌週の木曜日。河島徹は栄翔塾にいた。午後一時。五階の狭くて細長い研修室には新人が十一人、長テーブルの周囲に詰め合って座った。

大輪次長が現れ、各人に一冊ずつレポート用紙が渡された。栄翔塾の会社概要の説明が始まり、営業内容に入ると、次長がしゃべりながらホワイト・ボードに書く文字をみな一心に書き取った。

三十二歳の次長は、二日目から細巻き葉巻のアルカポネを合間にくゆらせながら研修した。途中で若い四人の社員が交代でトークの文面をコピーした紙を持ってきた。

三日目の研修が始まった。渡されたトーク集について詳しい解説と説明をした後、母親に話すことを自分のことばで書くように指示された。制限時間は5分。出来た者から次長に見せにいくように言われた。次々と席を立って見せに行った。

「まだ見せに来ていない人」

メガネをかけた長髪の角田弘二がおずおずと立ち上がり、イスと壁の間の狭いところを歩いて入口の席に座っている次長の方へ向かった。後から更に二人つづいた。

「俺どう書いたらいいか分からないので、ここで辞めさせて下さい」角田弘二はふてくされた口調で言った。

「うっ、それ、後にして」

角田はしばらくためらった顔で立っていたが、いったん席に戻った。後ろにいた次の者がレポート用紙を渡した。

それは相手の母親を完全に落すためのトークを自分のことばで書くというものだったが、角田はそれが出来ないというより、そのようなことを電話でくどくど言うことが面倒で嫌になったのだろうと、河島は思った。河島も出来るだろうかという不安の方が強かったから角田の気持ちが分かった。

並んでいた二人が終わった時、次長はホワイト・ボードの前に立ち、黙っていられないといった顔で角田を見た。

「何、角田、書けないのか? お前、学歴は?」

「大卒です」

「学歴は?」まだ高校生のなごりがある顔の進藤亮二に手で促した。

「高卒です」今度は隣りの三十過ぎの山崎伊知朗の方に同じように手を向けた。

「高校中退です」

「角田、大卒なら書くことの訓練は、お前の方がやってきているはずだろう。これって、やる気の問題だろう」

「で、どうなんだ、やる気がなくなったのか?」

「僕には難しそうなんで」 

「出来るかどうかは、やってみなければ分からないじゃないか。・・ほんとに辞めるんだな。歳はいくつだ」

「三十二です」

「三十二にもなって、今研修の最中だろう。そういうことは、終わってから後で言うのが常識じゃないか。お前、自分のことしか考えていないだろう。この先、お前のせいで動揺して辞める者が出たら責任とってくれるのか。会社もだし、ここに集まった皆の生活を守っていかなければならないだろう。何故終わるまで我慢して、後で申し出ないんだ。常識だろう」

「すみません」

「よし、帰って良い。お疲れさま」

 角田は鞄を持って立ち去り、いったん休憩に入った。

休み時間には、渡されたプリントでトークの練習を声を出してやるように指示された。河島はタバコを吸わないから、休憩時間に半数の者がプリント片手にいっせいに吸い始める煙に閉口した。河島の側に嫌煙者がいて、壁に取り付けられている開閉ハンドルを回し始めた。壁の天井近くに設けられている窓が順番に開いていった。

休憩時間が終わり、電話がけの役と母親役にペアを組んで再三練習した。しかし、何度ロール・プレイをやっても河島はトークに自信が持てなかった。一人っ子の河島は、自分の親くらいの相手や弟や妹のような年齢の相手にうまく話せるだろうかと不安が募った。

机上研修は五日間で終わった。

六日目から七階のフロアへ直行してタイム・カードを押した。

「富田、お前なんで遅れたんだ」

富田めぐみがドアを開けて入ってきて、タイム・カードを押して席の方へ向かった瞬間に次長が言った。

「バスに乗り遅れちゃって」十八歳で一七〇センチのひょろりとした体型の富田が、恥ずかしそうに言った。始業二十分前には出社しているよう言われていた。

「あれ、三田もまだ来てないな」

富田が席についてしばらくした時、次長が掛け時計に目をやって言った。その時ドアが開いた。

「三田、お前なんで遅れたんだ」

「俺、時間まちがえちゃって」三田光一は悪びれる様子もなく応えた。平日だから午後一時出社だったが、土日の出社時間と同じ午前十一時までに来るように研修最終日の帰る直前に次長から言われていた。 

全員揃って時間になったが、河島の隣りの小田島剛はまだタバコを吸っている。灰皿にはフィルターぎりぎりまでの吸殻が三本ある。頭は前のほうから禿げ上がっているが、歳は三十二の独身で休み時間は絶えず煙突状態だ。何かにつけ細かく短気な次長だが、自分が愛煙家だから文句をいったことがない。次長は、頭や人相・体型から彼に悪徳代官とか代議士というあだ名を勝手につけ、似顔絵を描いて小田島の机に皆に見えるように立てかける格好で貼らせている。  

「それでは今日から新人も電話の実践に入る。時田、新人に高一の名簿を十枚ずつ渡して・・」

後ろの壁際の棚には、高一、高二の地域別のラベルが貼られた引き出しが並んでいる。時田かおるは一番上の引き出しから名簿を取り出した。ラベルは栄翔塾に一番近い所から下へ行くほど県の外れへと向かっている。

「あっ、もしもし。お電話で大変失礼になるんですが、私、栄翔塾の河島って申しますが、今高校一年生の生徒さんかご両親の方、ご在宅でしたらお願いしたいんですが・・」

 実際にかける前に、トーク集を見ながらフロント・トークの練習に入った。新人全員で次長の後についてそっくり同じ調子で抑揚をつけて大声で言い始めた。

河島も貰った名簿をホッチキスで閉じた。めいめい持参するように言われた長い定規を一番上の名前の列へ持っていった。左から電話番号、生徒名、保護者名、住所、備考欄の順に並んでいる。

次長の号令でいっせいに受話器を耳へ持っていくと同時に番号を押しはじめた。受話器を直接口へ持っていくと音が反響するので顎のあたりへ持って行けと指示が飛ぶ。六回鳴らして出ないときは次へ行け。受話器は耳へ当てたまま指で切って次へ行くんだぞ。転居などで番号が違っているときは、紫のサインペンで番号の上にすばやく棒線を引く。一度言われたが緊張で忘れていた指示が次つぎと次長の口から飛び出す。番号を押す指先が震える。留守録のメッセージが流れるとほっとする。

先輩たちは耳に受話器を当てたまま立ったり電話コードが伸びきる所まで行って歩き回り、オーバーなジェスチャーで思いっきり抑揚をつけて声を張り上げている。

「とにかく明るく元気よく大きな声で話すんだ。暗く沈んだ声で話せば怪しく思われるからな」・・

 電話がけに入って三日目でアポが取れ、生徒を来塾させることに成功したのは十八歳の富田めぐみだった。

そこで、次長が思いつきで、最初に生徒を呼んだ三人には、五千円、三千円、二千円の順で現金をプレゼントすると言った。

四日目に高校中退の妻子持ちで三十三歳の山崎伊知朗が高二の生徒にアポがとれ、翌日の土曜に生徒が来塾した。

河島も四日目に高一の男子生徒にアポがとれ、デモ申請書≠記入して所定のボックスに入れた。二階のフロアは面談用に細かく間仕切りしてテーブルとイスだけが置かれているが、そこが満員になれば河島たちが机上研修を受けた会議室を使うとかの段取りがある。それに、初めての面談だと不慣れなことも多いので、次長か先輩社員が同席する。隣りの東京からの応援事業部隊の方が圧倒的にデモ数が多いから、パソコン上でチェックして情報を入力しないといけない。状況により、本人だけのシングル・アポもあれば、親子アポや友達同士複数で来る場合もある。

「河島のアポの子、来そうか?」次長が立った状態でアルカポネを灰皿に置いていった。

「ふらっと来るかもしれないが、確かなところは分からないです・・」

河島が金曜の3時にかけると、電話に出た相手の男の子は、「いない」と言ったので「ご兄弟の方ですか?」と河島がいってみると返事がなかった。声の具合から本人じゃないかと思ってトーク集にしたがって構わず話し続けた。途中で「A君?」と名前を呼んでみると、「はい」と応えた。そこでトーク集に沿い少々しんどかったが一方的にフルトークした。

普段陸上の部活で家に帰るのは十時になることも多いが、その日はたまたま学校の都合で授業も部活も休みで家にいたという。大学受験というより、この春二年に上がれるか心配だと。

そこで赤点が四つあって大学受験というより赤点をなくすことが目的で来たが、最後は赤点がなくなるどころか現役でC大学の理工学部に現役で受かった生徒の話をした。研修ではハッタリトークといってタイミングよく必ず挟み込むように言われていた。

そのあとどんな所か一度見に来てみないかと聞くと、親がいいといえばいってもいい、という。お金を払うのは親だから本来だと親子アポがベストだと言われていることを思い出した。今そこにお母さんはいるかと聞くと、働いていて夜は遅くなるし、土日も出ることがあると。それでは本人だけ先に見学説明会に来てみて、気に入ったらお母さんに話してみたらどうか、明日は部活は何時に終わるかと聞くと、明日の土曜も部活はないという。それじゃあ丁度良いじゃない、気軽に見においでよ、というと、行けたらいく、というから、それじゃあ午後六時までにおいでよ、待ってるから、というと、確約は出来ないという。それじゃあと栄翔塾の住所・電話番号を伝え、横浜駅からの道順を伝えた後、待っているから、もし都合が悪くなったら電話入れてね、と締めくくって受話器を置いた。

土曜日の出社は午前十一時だが、十時よりデモの研修をやると次長にいわれた。デモとは来塾した生徒に栄翔塾のことや大学受験の現状を話して一年分の月謝を払う申し込みをして貰うようなデモンストレーションをすることだ。河島は帰りに一つ前のバス停で降り、コンビニで食物を買って坂道を歩いて帰った。おにぎりとラーメンで夜の十一時過ぎに空腹を満たした。ラーメンには野菜をたっぷり入れた。

翌朝、透明袋入りの葡萄パンを三個取り出して蜂蜜をつけ、牛乳と小さなパック入りの野菜ジュースで朝食を済ませた。残りの葡萄パンとパック入り野菜ジュースを鞄に入れて早足でバス停へ向かった。

デモ。来塾した生徒を面談室に案内し、アンケート用紙を渡す。「“見学説明会アンケートは何のためにやるか分かる人?」

挙手したり指名されて自分の考えを言った。

河島は、「生徒についての予備知識を得るためでは」と答えたが、次長はイエスと言わなかった。

「いいか、駅に着いてここへ来るのに、場所が分からない場合には、一番わかりやすくて高校生が誰でも知っていそうな建物を言い、そこまで来たら迎えにいくから電話連絡をしてくれ、といっているが、生徒は不安なんだ。迎えに来て囲まれてどこか変な所へ連れて行かれたらどうしよう。このビルへ来て、ドアを開けて入ったら狭い通路があって向こうは行き止まりみたいだ、奥へ連れて行かれて何かあっても逃げられない。部屋へ連れて行かれ、無理やり申し込まされたらどうしよう。こんな時代だ。そんな心配をしてることもめずらしくないんだ。だから、アンケート用紙を渡すと、一切書かない子もいる。どうして聞くと、家で名前とか住所とかは記入するな、と親から言われてきているっていうんだ」

 つまり、面談室に案内したところで、緊張感を取って聞く姿勢をつくるのだ、という。

 夕方六時を回っても河島の話した高一の男の子は現れなかった。

次長に指示を仰いでから電話してみると、何度かけても留守電になっていた。次の日の午後七時を回った頃にかけてみると、おじいさんが出て、「今食事中だ。この前はあんなに長いこと何を話してたんだ」という。ご本人がまだ帰ってらっしゃらないようでしたらお母さんお願いできませんかというと、「今食事中だから俺が聞く」と言い張り、替わってもらえないまま受話器を置いた。次の日もおじいさんが出たら直ぐ受話器を置こうと思いつつ夜九時過ぎにかけると、本人と思われる者が出たが、うわずった声で「いない」といって直ぐに受話器を置かれた。一人っ子だと聞いていたから本人しか考えられない。何か都合の悪いことがあったに違いないと思い、本人が部活でいないといっていた土曜日の夕方電話してみた。電話口に出た年配の女性は、私は近所の者で本人もお母さんも留守だと言う。おかしな話だと翌週の日曜にかけてみると、「ああ、いつもかけてくる人ですね。家の子は関心あるようなこと言ったかもしれないけど、勉強は嫌いで、ぜんぜんそんな大学なんて考えていないですから」という。赤点が四つあった子がこの塾へ来て勉強して赤点がなくなるどころか、何とC大学の理工学部へ現役合格したんです、と言ってみたが、取り付く島のない物言いで受話器を置かれてしまった。先輩の取るアポを見ていると、高校生だけのシングル・アポでもうまくいき、社内でピックといっているオーダーにつながっていることもあるが、今のように詐欺の多い社会では、ルーズ・アポといって昼間親と話してから約束を取り付けて夜帰宅した高校生本人と話してアポにしたものか、昼間本人と話して夜帰宅した親に話して了解を得るものの方が来塾する確率が高いことを実感した。

研修期間は二ヶ月だったが、河島が入社して二十日過ぎた頃、横浜駅の近くで飲み会をやった。言いだしっぺは、新人の中で二番目に生徒を来塾させた山崎伊知朗だった。次長は最初まだ早いといっていたが、みんなの意向をくんでやった方が営業所が盛り上がると判断したのかいくことになった。十八歳の女の子や遠方からの通勤者でタクシー代を持っていないから終電に間に合わないと困る者を除いては、午前二時まで付き合わされた。

翌日、昼礼が始まる前に山崎伊知朗から風邪をひき四十度の熱を出して休むと連絡が入った。又聞きによると、その前日にも、アポが一番取れた山崎伊知朗のチームに次長から声がかかり、数人で明け方まで飲んだという。その日も山崎の妻が呼ばれ自家用車で迎えに来て、同じ方向の者を近くまで送っていったという。

山崎は三日休んで四日目に出てきたが、翌日また休んだ。今度は妻が交通事故に遭って入院し、山崎は妻の代わりに三人の子供の世話で出社できなくなったという。その後連絡のない日が五日つづき、いつのまにかボードから山崎の名前が消えた。その山崎はどうなったかとまわりの人間に訊いていた進藤亮二が、翌日喘息発作で休んだ。朝礼が始まる寸前に電話が入った。連絡してきたのはママだ、と次長は受話器を置いてから皆に言った。進藤亮二についてはアメリカの高校を卒業してバンド活動をやっていたと聞いている。

「いいか、持病のあるものは先にいっておけ。喘息発作じゃあしょうがないが、俺は、風邪で四十度の熱があっても休んだことはないんだ。風邪で家で寝ていても時期が来なければ治らないんだ。どうせ治らないなら働いていた方が良い。治るときがくれば治るんだから。熱があるとトーンは落ちるから、五倍気合を入れてやった。そのときのほうがオーダーが出たんだ」

進藤は大声を張り上げて電話していたかと思うと青白い疲れた顔でぼんやりとタバコをふかしている。その様子は今でも同じだ。「おまえ、バンドやってるっていうけど・・薬やってるんじゃないだろうな」河島は飲み会で次長が言っていたことがふと思い出される。

「テツ、お前何もの思いに耽ってるんだ。きのうのドラえもんのこと思い出してるのか」

「あっ、次長、おはようございます」

「今度は登坂に負けるなよ。さあ、掃除を始めろ!」

河島徹は、子供の頃から“とおる”といわれることが多かった。

幼稚園で「かわしま てつ」と自己紹介してからてっちゃん”とか“”“テツ”とも呼ばれるようになった。その後、家に電話が入り「とおる君いますか?」と聞かれ、「いません」といってガチャンと受話器を置いた記憶が何度かある。

 ここへきて次長にテツと呼ばれると、学生時代に戻ったような錯覚をおぼえる。

 

河島徹が新人として入ってきて一ヶ月と十日たった。前日は定休日の水曜だった。木曜は栄翔塾の営業にとっては新しい週の始まりだ。

出社して始業二十分前になると全員で机の上を拭いたりゴミ捨てをしたりするのは変わらない。

掃除が終わった頃にパソコン室のドアが開き次長が現れた。

正面の肘つきイスに座り、赤いケースからアルカポネを一本取り出した。

「それでは、全員起立して机の列の後ろに一列に並んで」

新人はこのときまでに三人減って八人になり、先輩社員四人を加えて全部で十二人だ。次長の見据えるような視線が一人ひとりの目を通過していく。席替えの開始だ。

名前を呼ばれた者は指差された席へ行って座った。 

何人か席決めした後、次長は首を傾げて再び移動させた。

全員を決めた席に座らせたことが、チーム分けにもなっていると後で分かった。隣同士がチームになっていたのだ。

女の子三人は、後ろに並んでいる三つの席に座るよう指示された。岩手の商業高校を卒業と同時に上京して栄翔塾へ入社して四年たった時田かおる。かおるの高校の後輩の竹華ルミ。それにルミと同じ十八歳の新人富田めぐみ。チーム名は、とんちんかん、略してとちか”。今回はチーム名は自分たちで決めろと次長に言われて命名した。机上研修が終わって実践研修に入ると次長は直ぐにチーム分けした。チームで競わせることで電話営業に変化を持たせようとしているのだ。 

高卒でここへ来て四年になる秋田出身の先輩社員・谷崎隼と登坂拓人、それに新人の神保昌男。登坂は二十二歳。河島たち新人より三ヵ月先輩で、前回の罰ゲームでは、登坂に負けた者は全員ドラえもんになって東急ハンズの前でドラ焼きを食べた。谷崎は降格して現在は主任だが、少し前まで係長だった。チーム名は“ナンバーワン”。

河島、小田島、安部チーム。名前は“マツタケ”。

川居、三田、進藤。チーム名は“ヤッタルゼ”

勝敗はアポ数で決まり、今回は結果としてアポの相手が来塾しなくてもよい、と次長が決めた。罰は、最下位チームが優勝チームに昼の弁当を奢ることと、負けが決まった日の帰りと次の日は七階まで外階段で上がり下りすること、と決まった。

次長がアルカポネの煙を吐き出すと立ち上がった。

「それでは今から5分、いや3分、それぞれのチームでミーティングして、済んだらいっせいに電話がけに入れ!」

 河島のマツタケチームの三人も立ち上がって顔をつき合わせた。

デモ日割り表がめいめいの机の上に置かれている。木曜から始まり水曜までが一週間で下の段

は次の週になっている。また相手の都合で定休日の水曜日にアポを入れて出社しても構わないこと

になった。研修中でも売上が百万円以上になると額に応じて一万、二万と手当がつくし、一人につ

き英・数・国と申し込めば年払いだから八十万位になるから魅力的だ。また月謝払いで希望する場

合はファイナンス会社を通す分割払いなのだが、電話ではそのことには触れない。

「それでは、来週の締め日まで、一軒いっけん引き下がることなく、一人三本アポを入れるようがんばろう!」

チームが盛り上がるようにと“マツタケ”と命名した四十八歳の安部が言った。七日間で一人アポ三本はやって出来ないことはないと河島も思うが、今の実力では必死でやらないと無理だと思う。しかし無理ということばは禁句だ。営業の仕事は絶えずポジティブでなければならないと言われている。

「小田島さんいいですか。落ち着いてゆっくりと話して・・」

安部が目の奥を覗き込むように言った。小田島剛は辞めた山崎伊知朗より一つ年下の三十二歳だが、頭は前の方からすっかり禿げ上がっている。独身で毎日母親から弁当を作ってもらって持参している。夜十時頃までいることもあるから、持参した弁当を昼間半分食べて夜の休み時間に残りの半分を食べている。安部が、落ち着いてゆっくり話すようにといっているのは、小田島は口内の広さに比べ舌が長く発音が不明瞭なためだが、心がけで以前より聞き取りやすくなっていると河島も思う。

「いいか、この仕事はゲーム感覚でやれ。明るく元気よく入るんだぞ!」

「はい!」

「いいか、言われたとおりに言えよ。何者で、何故電話したのかを正面玄関から正々堂々と名乗って入っていくんだ。それには、明るく元気よく出来るだけ大きな声で言うんだ。小さい声だと相手に聞こえないし、自信のない暗い声だと怪しく思われるだろう。机上研修でも何度も言ったが、フロント・トークでほとんど決まるんだ」

「はい!」再び大声でいっせいに返事をした。

皆の手が受話器に伸びる。

「あっ、もしもし、お電話で大変失礼になるんですが、私、・・」

開戦の火ぶたが切られた! 

しばらくすると次長が手に紙を持ってマツタケチームの側へ来た。

「小田島、お前よく聞き返されてるだろう。あわてないでゆっくりとはっきり言うんだ。前よりは良くなってるが。『隣りのかけがき竹かけかけたのは、隣りの竹がきに竹たてかけたかったら竹たてかけた。隣の客はよく柿食う客だ』ゆっくりでいいから、かつぜつよく言う練習しろ。なんべんもやれ。それを練習してから電話がけに入れ」

次長は自分でも若干つっかえながら何度も言って見せた。

「あっ、もしもし、お電話で大変失礼になるんですが、私、栄翔塾の竹華と申しますが、現在高校二年生の生徒さんかご両親の方、ご在宅でしたらお願いしたいんですが」

「たけはな、オマエ、お電話で、じゃなくて・・」

 竹華がお電話で”を強調して話し出したの対して、それよりもその次の“大変”の方を強く強調して言うようにと向かいの席で次長が直接発音してみせた。

竹華はちらっと次長の顔を見たものの、視線を戻して電話に出た相手としゃべり続けている。受話器を置くと、次長が再度ことばの強調部分とイントネーションの修正をやっている。

「まだ駄目だな、よし、今日は仕事が終わるまで、大変お電話で失礼になるんですが≠ニ、大変を前に出してやれ」

「えっ、ほんとうですか?」

「ほんとうだ、お前笑ってないですぐやれ。業務命令だぞ!」

竹華は言われたとおりやってみて自分でもおかしいと言って途中で止めてしまう。次長が更にやれと言い続けると、竹華は泣き出してしまったが、直ぐに席を立ってトイレなのか外へ出て行った。

三十二歳の大輪次長は、皆が電話中に細巻き葉巻アルカポネの煙を吐き出しながら事務所内を歩き回る。誰がどんな話をどういう調子で言っているか聞いて回っている。アルカポネの煙が流れてきて、甘い香りが漂ってくる。河島は香りは嫌いではないが、煙は吸いたくない。口内がいがらっぽくなり、洗い流そうという防衛反応で河島の口内に唾液がたまる。話中に煙を吸って咳き込んだり、話が詰まってしまうこともある。父方の祖父も祖父の兄弟もタバコを吸っていたが、みなどこかのガンで亡くなったと聞いている。

「あいつ、まだアポ取れてないな」

次長はボードを見て呟いた。夜の休憩時間が終わり、“アポ・ルーズ達成表”で記されている午後七時過ぎのゴールデンタイムに入っている。

当の谷崎隼は一階の受付に用事があって席を外していた。次長は丸いガムテープを持って谷崎のデスクへ行き、受話器を取り上げた。受話器の耳と口に当たる部分に、ガムテープの接着剤が付いている方を表に丸くして貼り付けると本体に押し付けた。次に机の引き出しの奥の方の見えない部分にも貼り付けている。

次長は自分の趣味で楽しんでやっているのか、ほんとうに会社のために意図してやっているのか、河島はふと疑問を覚える。

栄翔塾の研修期間は二ヶ月だが、河島たち新人がすでに社員並みの扱いをされているのは、新学期に向け生徒集めを急がないと先行きが不安だからだと河島は思っている。会社が即戦力を望んでいることは、これまでの研修を通じて分かった。全国の生徒数は年々減少し続けているが、塾・予備校は増えている。栄翔塾も県内の生徒を出来る限り獲得し生き残りをかけて戦っているのだ。・・

「ところで山田君、あした君の結婚式とか、テレビ出演とかの予定入ってる? じゃあ、丁度よかったじゃない・・」進藤亮二は次長が側でしゃべることを鸚鵡返しにしゃべっている。相手の高校生は進藤がアメリカに留学するまでいた高校の後輩らしい。来塾の話に差しかかっている。

「やったあ!」

河島がかけている相手の電話から留守録のメッセージが流れ始めた時、突然立ち上がって叫ぶ進藤のガッツポーズが目に飛び込んできた。

「やったあ! 俺、とうとうやったぜ」

「おめでとう!」

「よし、ボードにアポ時間を書いてデモ申≠書け」

神保お前、また振られたいのか」今度は進藤から目線を移して言った。

「いえ、もう嫌です」

「ケッコウ、ケッコウって言われて、ニワトリじゃあないんだよ。引いてばかりいると、おんなじになるぞ。言うべきことを全部言ってから受話器を置くんだ」

「はい!」

神保昌男は英語留学という名目でバンクーバーへいったが、本当は心に思っている彼女に会いたくて行ったのだが、彼女を訪ねた家で婚約したという白人男性に会うことになった。そこで失意のどん底に落ちたが、三か月の英会話学校の授業料を先払いしていたから上の空で授業に出席するだけして日本へ戻ってきたというのだ。それが原因かは聞いてないが、神保は大学四年の単位を落として中退したという。

しかし、神保が言われていることはそのまま河島にもあてはまった。電話の相手から、「結構です」と言われると自分の人格まで否定されたように思われ、河島も直ぐに受話器を置きたくなる。

 

「あいつ、連絡なしで欠席しやがって」

 翌日、時間になっても現れないし連絡もないことで頭にきた次長は、奥のパソコン室から出てくるなり言った。聞かれたくない内容の電話は生徒のものも社員のもそこでしていた。

「小田島さん、どうしたんですか?」同じマツタケチームの安部が、河島が聞く前にきいた。

「胸がむかむかして気持ち悪いから休むって言うんだよ。さぼりだよ。いいか、この際言っとくが、休むときは必ず連絡するんだぞ。その者のために、予定した仕事も遅れることになるんだ。それで時間を取られると、上がるかもしれないオーダーも上がらないことになるんだから、会社に迷惑かけることになるんだ」

 チーム・ミーティングを終えて全員電話がけに入ったが、次長は小田島のことがずっと気になっていたらしく、昼休みに再びパソコン室へいった。

「あいつ、親父さんが出て、弁当を持って家を出たって言うんだ。会社へ向かったにしては遅いな」

「次長、お食事たのみますか?」持参した弁当を食べている者やパンを買ってきて食べている者を見ながら言った次長に、時田かおるが聞いた。

次長は隣のビルの一階でやっているモスバーガーのメニューを見ながら言い、時田が電話している。河島にはささやかなご機嫌取りにも思われる。

「あいつ、弁当持って会社へくるかと思ったら、鶴見川の土手で弁当食べていたんだって」

午後五時を回ったときパソコン室の電話で再び電話してきた次長が言った。

それを聞いた安部が苦笑いしたが、河島は笑えない心境だった。アポが取れず、かければ結構です≠ニ断られ続ければ、理屈では分かっていてもすっかり自信をなくしてしまう。休みたくもなる。

そこで河島は次長の目線にあってどきりとした。

「河島ちょっと」パソコン室へ促された。テツでなく河島と呼ばれるときは次長も茶化しや遊び心がないので緊張する。

ドアの向こうにはパソコン二台と電話とイスがある。データの入力やオーダーに持っていけそうな相手と電話で話を詰める場所。仕事のことで上司が個人的に社員に話す場所でもある。イスにかけるといやでも向き合う。

「切り返しやってないだろう」

「はい」

「やらないと、ただの迷惑電話になっちゃうだろう」

切り返しというのは、電話をして出た相手に直ぐ「結構です」といわれ、「あっそうですか」といって引き下がり受話器を置いてしまうことだ。「ああ、そうなんですかすみません。ただお母さん・・」といってこちらの言いたいことを言ってから断られれば仕方ないのだが、相手から瞬間的、反射的に「結構です」、と言われるとなかなか切り返せない。こちらがしゃべりだした時には、相手の受話器はすでに置かれていることも多い。河島も家に営業の電話が入ると直ぐ切りたくなる気持ちから、頭では容易に想像のつくことなのだが、いや、想像がつくからこちらもしつこくなるのではないかと、相手の本心を聞きだす前に受話器をおいてしまい、しまったと思うのだ。

「よし、新人はまた隣同士で応酬話法の練習だ。・・」

いったんチームを無視して隣同士でペアになり、母親役とかける役を交替でやる。次長は母親役が「結構です」を挟む場所を細かく指示した。十分ほど練習して再び電話がけに戻った。

「川居、おまえ、トーンを下げてタメ口でやれ、いいか命令だぞ。『ど〜せ信じてくれないと思うけど、おかあさん、T女子って知ってるよね。そこへいってた子で赤点四つあった子をあずかってね・・』」

国立大を出て、ファミレスでフリーターをやったり、電話帳みて投資の勧誘の電話営業をバイトでやっていたメガネの川居直人は、優男でトーンの高い声で電話に出た生徒にもいつも丁寧な言葉遣いで話していた。

「僕ってそんなに営業っぽかったかなあ」

 次長はそれには応えずにアルカポネの煙を吐き出して今度は三田光一の横へ行った。

「三田、そうだな、トーンを下げて低い声でやってみろ」

 今までは声が裏返るような高い声でやらせていたが、アポはおろかルーズもなかなか取れないので手法を変える支持を出した。

「これだとやりづらいな」

 次長が外へ出て行くと、河島の横の三田がいった。三田は都内でも偏差値の高いことで有名な高校を出ているが、大学が無名なので一歩引くところがある。それは別にして、確かに、しゃべりを変えると慣れるまでほんとうの自分でないようでしっくりしないものだと河島も思う。俳優になる人ってそういうのにやりがいを感じるんだろうか、などと思ったりする。

「手短に言ってよ」フロント・トークから入って、相手が父親とわかり聞いてもらえそうだったので内容を充分伝えようとトーク集に従って話し始めたら、話の腰を折られた。今は忙しいからそれ以上聞いていられない、といわれた。土曜は父親が電話口に出ることも多いので心構えはしているつもりだが、相手によって随分と応対が違う。「塾なら他へ行ってるから」とか「ウチは進学しないから」「今いないから」などと言うのが多い。今いないから、というのは母親がいないという意味らしい。フロント・トークでは「ご両親の方ご在宅でしたらお願いしたいんですが」といっているから父親でもいいのだが、要するに勧誘電話から逃げたいのだ。明るくさらさらと言え、といっても聞いてくれないものがほとんどだ。

「ウチの名前消しといてよ」

「栄翔塾って、この前名簿からウチの名前消すって言ってたのにまたかかってきたの」

「もう、何度かかってきてるか」

「5分前に掛かってきましたよ」

「関心ないから」

「そうゆうのは全部お断りしてるから」

「うるさいから切るわよ」

「ほかへ行ってるから」

「遠いわね」

「そこまで行って何かあったら、オタク責任とってくれるか?」確かに、インターネットで十六歳のデリヘル”買ってホテルでなんて時代だから。・・

「次長、電話代わって・・」富田めぐみが今にも泣き出しそうな顔で訴えている。相手の父親に、ウチの子の電話番号どこで調べたんだ、その名簿個人情報だろう、どこで手に入れたのだと詰問されている。

その日、相手が来るかどうかは別にして、河島を入れて六人アポが取れた。河島のアポは、母親が出て娘は部活で何時に帰るか分からないが、今塾を探しているから明日だと何時に見学会に行けばいいのかというから、何時くらいだったら来られるのかというと、時間は娘に聞かないと分からないが6時過ぎにはなると思うという。それでは、夜は9時過ぎまでいますが、待ってますのでお伝え下さい、といって必要事項をメモしてもらった。母親は仕事でこれから直ぐ出かけなくてはならないというからいったん受話器を切ったが、やるのは本人だから、帰る前にかけてみようと思った。

河島は8時から9時半の間に4回かけた。最後に娘らしき若い声の主が出たので、本人か名前を聞いてみると妹だという。本人も母親もまだ帰っていなかったが、一応アポとしてデモ申請をした。

日曜の朝、午前十一時を回っている。次長は全員の仕事状況を一覧表にして皆が電話がけに入る前に配る。“達成表”の欄にはめいめいが申告したアポ数とルーズ数が記入されている。

河島のチームの小田島剛のルーズ欄には数字でなく“土手”、アポ欄には“サボる”と入力されている。

「小田島、お前、アポもルーズも取れてないだろう。今度は何事ももっと早くやる練習をしろ。『結構です』を、お母さんのことばとは思うな、テープが回ってると思え。いっぱい電話がかかってきて、反射的に『結構です』、というだけで意味はないんだ。いいか、きつく断るお母さんほど、ガードが固いから他の人も入り込んでいない。だから、話せれば、おいしいお母さんなんだ。子供は素朴で素直だったりする、いいな。受話器を握ってお母さんが出たら、相手のことばと重なっていいから『ただお母さん』て言ってみろ」

「登坂、お前先輩のくせに新人に負けてるじゃないか。僕は後輩に負けるダメ社員です!」と紙にマジックで大きく書いて背中と前に垂らせ、命令だぞ!」

「えっ! マジっすか・・」

「これが終わったらやれ! いいか、真剣に三日やってアポ一本も取れないってことはないんだ。相手が出たら全部ルーズにしろ」

河島がトイレから戻ってくると、登坂拓人は言われたとおりにマジックで書いた紙に紐を通して背中と胸にぶら下げた。

「お前、今週にオーダーが上がらなかったら、坊主だぞ!」と言いながら、次長は天井から紐で電気バリカンをぶら下げてスイッチを入れて鳴らしている。

「いいかボードを見ろ! 負けたチームには罰が待っている。これも自分のためだし、会社の利益にもつながる。最後まであきらめるなよ、死ぬ気でやれ! 99駄目なら最後のおいしい1が終わりのほうに近づいていると思ってやれ。電話がけの時間が終わるまで、1分1秒あきらめないでかけるんだ」

「進藤、『結構でしたかすみません。ただお母さん』、「ただお母さん、の語尾のさん”を上げて言うこと」進藤は次長の視線を追っている。

「『あーそうなんですかすみません。ただお母さん、ど〜せ信じてくれないと思うんですが』、と言って直ぐハッタリトークへ行くんだ。いいか、最初の『結構です』をくらったあとで、『赤点4つの子』のハッタリトークへいって、システムへ入り、ウチの塾はこれこれでって行くだろ、そこで二度目の結構』をくらい、入試の現状トークへ行って、本筋へ戻してフルトーク、そしてルーズ・アポへ行くんだぞ。ど〜せは出来るだけ伸ばせ。相手に何だろうと思わせて受話器を置くことを忘れさせるんだ」

 河島は、ロール・プレイで練習した箇所とは違うところで「結構」が来ると、対応に戸惑って思わず引いてしまう。予期しないことばが返ってきて返すことばに詰まっているうちに受話器を置かれている。電話がけに入って以来、ずっとそれの繰り返しだ。

「いいか、肥満の写真見たことあるだろう。使用前と使用後。あれ、説明書きを読んで心が動くのか? 中にはマニアックな人がいるが、少ないだろう。感情が動いたときに行動が起きるんだろう。感情に訴えるんだ。いきなり電話がかかってきて、僕は医者だから僕の言う事を信じなさいって言われたら、ほんとかなって疑うだろう。それが、カリスマの肥満の権威が目の前で言ったらどうだ、信じるだろう」

「はい、信じます」神保昌男の声がひときわ大きく響いた。

「この仕事は、精神が9割で技術は1割だ。何年もやってる先輩社員がオーダー上がらなくて、研修中の新人がオーダー上げることが出来るのは、なんだか分からないけど、一所懸命やるからだろう。それが相手に伝わるからだろう」

「それさっき聞いた。同じことを言ったのね」と河島は気短で険のある母親に言われ嫌な思いをした。出た相手に次長に言われた通りに途中ハッタリトークも入れてしゃべると全部で5枚しゃべることになる。相手に思い出させたり印象付けるために意図的に同じことの繰り返しトークが入っている。それを全部言おうとすると、棒読みで早口で平坦になる。切られまいとすると余計にそうなる。後ろから富田めぐみの声が聞こえてくる。相手に話しかけるのではなく、とにかく一所懸命トーク集を読んでいる。ルーズをとれといわれて、留守録にフルトークした女性が以前いたと聞く。それも、相手と会話するように、「そうですよね、お母さん」とか。帰ってきてそれを聴いた母親が何事かと電話を入れてきたという。

「パートで、テレアポでやってるような会社はろくな会社じゃあないっていわれたんですよ。・・ウチはパートでなくて社員でやってると言ったんですよ」マツタケチーム名の名付け親で四十八歳の安部が河島に言った。

次長が、今度は登坂拓人の席でいたずらをしている。外から見えないように受話器の口にガムテープを貼って押し付けている。机の引き出しにもガムテープを貼って引き出せないようにしている。アポが取れないことへの罰だ。

越後屋と言いながら、次長が小田島剛の弁当の入った鞄を流しの方に隠しにいった。次長が描いた額の上が禿げあがった似顔絵が、席替えした小田島の机上に移動して立てかけたままになっている。 

休み時間。次長が神保昌男にライターの炎を口先で吸ってみせる。神保に同じことをやらせている。神保が「アッチー」といって唇に手を当てている。今度は神保が見てない間に灰皿のタバコの灰を次長の人差し指の先に付け、神保の手の甲を上にして親指と人差し指で握った。そこで次長は細巻き葉巻アルカポネを手の甲の直ぐ上に持っていってタバコの灰を落す仕草をする。神保がそれを注視した。手の平の方を返すとそこに灰がついている「すっげえ! 灰が手を通って反対側へ行った」その後立ち上がって神保に柔道の技をかける。「イッテー」

六つのアポのうち谷崎隼と時田かおる、それに神保昌男の生徒は来塾したが、河島のアポは七時を回っても現れなかった。七時から九時まで三度電話したが、留守電になっていた。

「まだ帰っていません」九時半に電話口に出たのは妹だった。母親もまだ仕事から帰っていないという。

「ああ、それ私ですけど、お父さんがパンフレット貰ってきたとこがあって、私もそこがいいと思うのですみません」河島が当の本人と始めて話せたのは、罰ゲームの締め日の夜だった。河島はその塾の場所を聞いてみて、栄翔塾より横浜駅に近いライバル有名塾だと分かった。

曖昧なアポだと来塾する可能性は低い。本人だけのシングル・アポだと、親にはウチの子を騙したと思われる。親がやらせたいと言っても、本人は親とは違う。ルーズを取ってアポにつなげるのがベストだが、親と話すことを恐れたり、親が不在続きだったり、早く取りたいという焦りから、本人だけで話を進めて失敗する。時期ネガもある。河島の頭の中にそのような思いが駆け巡る。

火曜の夜、ゲーム結果が出た。

「マツタケ、負けるといいことないな。昼はおごらにゃいけないし、階段で上がり下りだ・・」

 次長の視線が笑いながら河島たちの方へ来た。残念ながら、河島たちマツタケチームが2本で最下位になった。負けチームがトップチームにお弁当をおごらなければならない。一番アポ数が多かったのは女性群のとんちんかん略して“とちかチーム”で6本だった。そのうち3本はすでに生徒が来塾してデモが打たれて申し込みの結果待ちだ。

隣の部隊は定休日の水曜に必ず数人出ていると聞いていたが、こちらは先輩社員が二人出勤するが、お弁当は木曜の昼に買いに行くことになった。七階まで階段を上り下りして。

 

「いいですか、決意表明をして下さい。御茶ノ水の部隊にまけていられないぞ。あちらが40オーダー出して、横浜が20じゃあ。あいつらあんなもんだとバカにされてるんだ。・・」

隣りの部隊の課長の大きなガラガラ声が間仕切りの上の部分が開いている天井からはねかえってくる。

河島は栄翔塾へ来て後一週間で二ヵ月になろうとしていた。研修が終わると社員になるわけだが、一人も生徒を呼べず一本もピックつまりオーダーが上がらないで社員にしてもらえるかも心配だ。新人七名でオーダーが上がってないのは四人だが、生徒を呼んでないのは三人だ。次長がよくいう給料泥棒だ。

「オマエもっとオーダー上げないと、今結婚したって金はないし、収入は不安定だし、賃貸マンションの家賃払って、子供でも生まれたら、幼児虐待になっちゃうぞ」

「奥さんにもっと稼いで来いって言われて、当たるとこがなくて子供を踏んづけるか・・」隣の部隊が休憩時間に入り、雑談が聞こえてくる。

完落ちってのは、これはあまりいい話ではないが、まだここのビルに来てなかった、御茶ノ水の方で学校名簿でかけて呼んだ高二の女の子だけど、学校は東横線だったから、学校帰りに話を聞きに来て、俺が本人にデモ打って、夏休みの終わり頃だったが、陸上やめてウチの塾へ来るって言うんだ。ところが家に帰って相談したところ、横須賀の方からだと、とにかく遠いし、陸上推薦で大学考えてた部活辞めてウチの塾へ通うのは駄目だと、父親が猛反対したんだ。それから、学校行かなくなって家出して行方不明になったんだ。父親が心配して何度も連絡してきて、そのときは鶴見川の土手に居て帰らなかったというんだが。それからしばらく連絡なかったけど、数ヶ月たって忘れた頃、父親から電話が入って塾に行ってもいいかといって俺を訪ねてきたんだ。そしたら、その子、家出して、それから戻ってきたが、本人、家のガレージで首つって自殺したっていうんだ。あのときはあんたのいうことが信じられなくてお前の成績で、今から受験勉強しても遅い、塾は営業でやってるだけだからだまされるなっていったけど、今から思うとあんたの言うようにやらせて見ればよかったというんだ・・」 

河島ははっきり言って焦っていた。アポを取っても生徒が来ない三人のうちの三田光一が良いアポを入れている声が聞こえる。

河島は祈るような気持ちで電話をかけ続けた。

冷や汗が出る思いの中でアポが取れたのは、次長から完落ち”の話を聞いた翌夜だった。

次の日、約束の午後七時を十分ほど過ぎた時、一階の受付から内線が入った。高二の男子生徒がほんとうに来塾したのだ。サッカー部だというから体格の良い頑丈そうな子かと思ったが、河島が想像していたより小柄で髪は短く可愛い目をしていた。二階の面接室に案内し、アンケート用紙を渡すと何の抵抗もなく素直に記入してくれた。向こうのブースで面接している社員と生徒の声がときどき聞こえた。記入を終えたところで教室案内と各教科の資料棚を見せに行くるように研修を受けていたのでその通りにした。その時間、各教室の授業風景も透明ガラス越しにいくつも見られた。ブーツに戻ってきた。河島は研修で受けた資料を基に栄翔塾の概要を話した。本人は経済学部を受けたいとアンケート用紙にも書いていた。スポーツ推薦まではいかないので受験勉強に切り替えたい、と電話で聞いたことと同じ内容の話が本人の口から語られた。受験校の目標を高くして受験勉強をするように偏差値表を見せ、自分の体験を交えて話を進めた。本人の気持ちは受験に向かっていることが目の輝きから見てとれたので、月曜日から日曜日まで毎日選べる栄翔塾の時間割表を渡して説明を加えた。長すぎる話は押し売りになるから禁物。次長が時計を見ている姿が想像された。最後に親と相談して欲しい費用について話して紙を渡した。親は僕がやると言えば応援してくれると思うと、河島の質問に笑顔で応えた。素直な生徒だと思ったが、ピックになるかは本人が料金表を見せて親と話してみないと分からなかい。

母親から直接申し込み電話が入ったのは翌日の昼だった。河島を一安心させてくれる初オーダーだ。

 

「塾はケッコウ」「塾の勧誘はいらない」「お勉強に関することは一切お断りします」「間に合ってまーす。ガチャン!」「高校は辞めたから」

耳元に、“ピー”というファックスに切り替えてある音が飛び込んでくる。

「その名簿、どこで調べてきたんだ」「それは死んだよ」「高校へは行ってないから」「ウチの子は大学進学しないから」「ウチは就職だから」「もう二度とかけてこないで」「一科目だけ一ヶ月毎の支払いでなきゃダメだな」「失礼になるんならかけてこないで!」 

相変わらず、99.9%断られ電話営業が続く。

「ただお母さん、ウチがお預かりしているのは現役の高校生だけなものですから当然学校の勉強の方も大事ですよね。しかも、某予備校でアンケートとってみたところ、学校の勉強と受験勉強が両立できなくて大学落ちたって子が、落ちた理由のなんと第二位にあがってますからね。だからウチは、ふつう予備校だったら学校の勉強なんてまったく見てくれないですけど、ウチは見ないどころか完璧に指導してるんですよ・・」

「オマエなー、お母さんなんてこんな顔で、生徒なんてこんななんだぞ、びびって引くんじゃあない!」次長はそう言いながら、みんなの机の上に自分で描いたイラストのコピーを二枚ずつ置いていく。それには、赤ん坊をおぶっているデブでアンパン顔でスカート姿の背の低い母親とメガネをかけ学生服姿のひ弱そうな男子高校生のイラストが描かれている。

「登坂、トサカ! 後ろのスチールの書類入れの扉を開けて、おーい、暗いよー怖いよー寒いよー=E・オマエ、これ以上でないってゆう、ありったけの声でいいっていうまでつづけろ!」

「なりふり構ってる場合じゃあないだろう。ある日突然親が具合が悪くなるかもしれない。金はないよりよりあったほうが、」

「いいです!」

「相手が出たものはみんなルーズへ持っていくんだ!」

「はい!」

「ボードを見れば分かるが、一週間一本もアポが入っていない者がいるじゃないか。まだ新人気分でいるんだよ」

 その時、次長、と言いいながら隣の部隊の課長がきた。

「本社から・・」電話機の点滅を指さしている。新人研修の内容についてのようだ。

「生徒が来ない理由は、関心がないか警戒してるか、面倒くさいから、のどれかしかないんだ。話に勢いがないと生徒が来塾しないんだ!」河島は、そのほかに、親の反対や同意が得られなかったとか、家庭状況からお金がない、などの理由もあるなどと思っている。

次長の声を聞きながら、名簿棚から次のものを十枚数えて持ってきて、間仕切りボードの脇にあるデスク上の控え用紙に記入する。 

よく見ると、一週間前にかけた名簿と同じ名前が見つかる。四、五枚重なっていることが分かる。限りある名簿の、転居したり消去依頼や死亡や高校を辞めていたり番号が変わったりなどしたものを消し込んでコピーするだけだから、人数でぐるぐる回していれば同じ人間の所へ同じリストが回ってきてもおかしくない。卒業した高三にはもうかけられない。新高一の名簿はまだ業者から届いていないようだ。やはり良識に反すると思うが、鼻で笑って相手のお母さんと親しくなるぐらいでないと稼げないのかもしれないと自分に言い聞かす。先月手取り三十万を超えたのは、十一人中と二人かと、河島は谷崎隼と川居直人を見る。

休み時間、四十八の安部が小声で河島に耳打ちした。

「きのう、ネットで掲示板見たら、俺ら営業のこと、嘘ばっかりとか、今も栄翔塾のYから電話あった。しつこくて困るとか、新学期でそんなに申し込みあるなら電話勧誘なんかする必要あるのか、何で毎日電話かけてくるんだとか、いっぱい書き込んでるんだ」

これは次長に聞かれるとネガネガ発言だと非難され、何を言われるか分からないから河島も黙っておくしかない。

 

三月の二週目から四月初めは新学期で自然と申し込みが多いから個人戦にして、チーム戦は中止だと次長から言われている。しかし、その一番良い時期に三田光一の姿が見えなくなった。新しい仕事が見つかったようだ、と河島は同い年の神保から聞いた。営業成績がふるわなかったが、それは河島も同じだ。同年だったしはっきり言ってショックだった。

 入社して第三の罰ゲームが始まったのは、四月の営業暦で四週目

だった。次長が誰とチームを組みたいか指名して聞いていった。

期間は一ヶ月後の締め日まで。負けた3チームは成績の悪い順に、3対2対1の比率割で打ち上げ会でかかった飲食代をおごり、その上最下位チームはその飲み会場でピンク・レディーの格好をして踊りながら歌うことになった。優勝チームだけが費用無料で、飲食費が予想外に大きいときは次長が救済金を出すというルールになった。

片想い(3人)、ミドリガメ(3人)、インコ(3人)爆弾(2人)。片想いチームは、新人で一番オーダーを上げているメガネの川居直人。女性で栄翔塾へ勤めて5年目にはいった先輩社員の時田かおる、それに河島。ミドリガメは、神保昌男、進藤亮二、土手の異名を取り頭の禿げた小田島剛。インコは、48歳の安部秀太と19歳になった富田めぐみと先輩の竹華ルミ。インコでなく淫行とか援交と言われる。爆弾は、係長に復帰して24歳になった谷崎隼と先輩呼ばわりされて次長からよくいじめられる登坂拓人。ここは実力を買われて二名。

ホワイト・ボードには、アポの時間が記入される。ピックは売上金額の多いオーダーの順に赤・黄・青の三色のマグネットが置かれる。

「いいか、needs(必要)と wants(欲)、を頭に描きながら話をするんだ。ニーズは“しなきゃならない”厳しい話。ウォンツは“したい”おいしい話だ。俺は、そうだな、親にはおいしい話を2で、厳しい話1。生徒本人には、おいしい3で、きびしい1だな

「ルーズのかけ方は、明るくフレンドリーに。今日何時に電話させてもらった、あっ、お母さんですか。どうも、大輪です。栄翔塾の。昼間はどうもすみませんでした。のように、母の構える姿勢を取るようにしゃべるんだ。その後、本人が出るまでねばる。そりゃあお母さん。どこの世界に塾からの電話に出たいって生徒がいます? 勉強の話ですよ。みんないやですよ。先程のお子さんだって、電話に出るのいやがってたのに、今日見に来たんですよ・・半落ちじゃあ駄目なんだ、完全に落とせよ」

「はい」

「何で今日電話したかって言いますと、今は52.1%の生徒が進学してますけど、2009年には大学の数と生徒数が同じになるんですよ。そうなると皆大学出るようになるから、大卒が中卒と同じになってしまう。ですから、六大学以上でないと、大学出ても就職がなくなるわけですよ」

 本当にそうなるかは別として、とにかく相手に善意の恐怖感を与えないと相手がその気になって聞かないということを次長は言いたいのだろう。

 

「おーい、冨田、声が聞こえねーよ。生きてるのか!」係長に復帰した谷崎隼。

「おいそこ、まったりしてるぞ!」進藤亮二が河島を指さして叫んだ。

「失礼なら電話しないで」

「五分前にも電話ありましたよ」

「オマエ、何時だと思ってんだ」おじいさんの怒鳴り声がドーンと河島の鼓膜にくる。

新高一の名簿に電話すると、まだいいと時期ネガの答が返ってくるが、それにかけるか今までかけたことのある高二・高三の名簿に再び電話する。それ以外に仕事はない。

相変わらずイスの上に立ったり、周囲を歩き回って掛ける。抑揚をつけ大声で掛ける。まわり声で相手の声が聞こえない。「オタク、後ろが随分うるさいですね」また父親から同じことを言われる。

タバコの煙。次長はあいも変わらずアルカポネをくゆらしている。吸いかけ置きタバコの煙が憎らしいが、いまだに「仕事中にタバコ吸うのやめて」と直接次長に言えないでいる。

「お母さんトイレにでも入っていて、T君が電話に出るようにして下さいよ」

ルーズ、アポ、デモ、ピック。書くのは簡単だが、これに費やすエネルギーは結構大変だと河島は思う。

「土日は父親の在宅率も高いし、アポ取りやすいだろう。土曜日曜に午前中から出てきて夜まで電話して、一本もアポが取れないなんて、真剣にやってればありえないんだ。大の男が雁首そろえていったい何をやってるんだ!」隣りの部長の声が聞こえてくる。

皆のデスクに貼られている“アポ・ルーズ達成表”には、1R・2R・3R、GOLDEN・TIMEなどの欄に数字が記入されている。

隣りでファイルを捲っている。土日・祭日稼ぎ時。「デモ数日割り予定表」「攻略カルテ」「デモ申請書」「今年十二月時点の希望」「営業カレンダー」「見学説明会アンケート」「毎週日曜オリエンテーション」・・

河島も休み時間にファイルを見る。栄翔塾っていうのは、現役高校生対象の大学進学予備校なのだ。浪人生を取らないのは、他の予備校との差別化のため。基礎問題、発展問題、雑学問題、町塾、専門塾。関連プリントが透明ファイルに差し込んである。

私大も七五%の大学が何らかの形でセンター試験利用(640大学)”鉛筆での書き込み。

距離ネガ。〜あたりからも来てますよ。生徒が来た所より遠くを言う。そこが気に入りやる気になれば遠くても行く。気に入らなければ、歩いて十メートルのところでも行かないだろう。

「例えばお母さん、book a seat”ブックは、予約する、という動詞です。これが出来たか出来ないかで3点違うんですよ。入試は、1点ラインに数百人並ぶんです

河島はことばが続かなくなり、生徒が来塾した際のデモで言う事を言い出した。あれは、失敗だった。来てから聞く楽しみをしゃべってしまっては、興味がうせてしまう。

「S大は入試での成績上位者に四年間の授業料を免除する。入試の成績優秀者に四年間授業料を支給する制度は、M大も一昨年から導入している。長引く不況から私大より地元の国立大を選ぶ傾向が強い」新聞の切り抜きだ。

 

定休日の水曜日。ソファにねっころがったまま天井をぼんやり見ている。三回目の罰ゲームでは、最下位にならずにすんだ。「ペッパー警部、邪魔をしないでー、私たちこれからいいところ・・」飲み屋でスカートをはき、ほっぺたにピンク色の口紅を塗った小田島が、タイミングの外れた動作でぎこちないジェスチャーをつけて歌っている顔が思い出される。

河島徹は六月いっぱいで栄翔塾を辞めようと心に決めた。結構です、と言われつづけても、常識も良識も無視してかけつづけるえぐい電話営業の仕事をやり続けるエネルギーがなくなった。

「自由だけど生活できないのと、生活できるけど辛いのと、どっちを選ぶ? 合った仕事で稼げりゃ良いけどさ・・」父からのメールを思い出す。

起き上がり、栄翔塾に就職してからの営業成績を並べてみた。

入社月の1月ゼロ、2月1本、3月3本、4月2本、5月1本、6月は終わろうとしているがまだゼロ。交通費は出ないし社保を引くと今度の手取り十四万だ。 

前職の方がずっと良かった。殺菌や鮮度を保つための電解水や次亜塩素酸ナトリウムによる塩素処理の塩素で目が痛かった。大学時代、農学部ではりんごの交配とか野菜の品種改良についてやった。食品製造会社の現場では、大学で専攻したバイオテクノロジーの技術や知識はほとんど必要なかった。倒産してしまったから駄目だが、それでも残業手当がついたので手取りはずっと良かった。

「当予備校の案内や、教室見学に来る生徒・両親等に当予備校のシステム内容をわかりやすく楽しく説明する仕事で、外回りは一切ありません」折込散らしの切り抜き文面がノートの間から出てきた。

尾崎豊のCDをかける。“15の夜”“17歳の地図”でデビューした尾崎豊の歌声が響く。“Bow!”・・午後四時の工場のサイレンが鳴る・・中卒・高卒・中退 学歴がやけに目につく・・

両親が別居した高校三年の時を思い出す。徹は自分の頬に泪が伝うのを感じて思わず手の甲で拭った。

母は平塚の団地にひとりでいるが、今でも准看護師と呼称は変わったが、近くの病院で働いている。河島徹は一人っ子で、両親が共働きだったため、学校に上がる前は保育園に、小学校に入学してからは学校が終わると団地事務所の学童保育へいった。学習塾のある日は家に帰ると一人のことが多かった。そんなとき、母もだが、父が会社から電話してくることが多かった。「元気か? ご飯食べたか?」という父の声を今でも思い出すことがある。父と母は恋愛結婚と聞いていたが、性格が合わなかったのだろうか。強い母と優しい父。何を追い求めていたのか、転々と職を替えていた父。准看護婦をして生活を支えた母。

徹が中三の時に母は家を出ると言い出した。徹は夜中に父の寝ている部屋へいった。父は電気スタンドを点けて本を広げていた。

「俺、高校行けるかなあ」心配なのは費用の点だった。

「それは大丈夫だ、心配するな」父は徹を見てはっきりとそう言った。

両親の仲はずっと険悪状態が続いていたようだ。母はそれ以上耐えられないからと、徹が長野の国立大学の二次試験を受けて帰ってきた日の翌日に徹の机の側へ来た。

「てつ、ごめんね。お母さん、家を出ることにしたの」

 残念だったが、徹はそのとき互いに我慢して気まずい思いを続けるよりはいいかもしれないと思うようにした。幸か不幸か、徹は現役で長野の国立大学の農学部に合格して寮に入ったから、家族はそれからばらばらに暮らすようになった。・・

徹は、ふと自分を破壊したい欲求がこみ上げてきて、思わず新聞を手に取った。

PAZ”と書かれた紙を掲げて爆破テロに抗議する市民の写真が載っている。“スペインでテロ”。無差別の列車同時爆破テロ。死者199名、負傷者1400人。犯人像絞れず。

 数日前には咲いていたと思ったシャコバサボテンの花がしぼんで枯れている。

父は元気だろうか。教材販売の営業会社に勤めていたときは、月に一度ほど電話が入った。かつて家族三人で暮らしていた大船の安い中古マンションを売ってその金の半分を母に渡してタイへ行ってからは、国際電話は料金が高いからとメールを入れてくるようになったが、ここ二ヶ月ぐらい連絡がない。

二年前、徹が食品会社にいたとき、会社でリストラされ良い仕事がないから5万円助けてくれ、と言われて指定口座へ入金した。その父が父にもっと金になる仕事に就けば良いじゃない、と農業をしていた父に高校生のときに言ったら、「俺ももっと若けりゃあそうするが、この歳ではな」といわれたと言ったことを思い出す。

バンコク近郊のアパートに暮らしているという父。アパートから歩いて五分ほどのところにローズ・ガーデンがあるという。園内にはバラ園やブーゲンビリア園があり、一年中花が咲いている、と父が言っていた。赤い毛が生えた奇妙な外見で果肉は半透明でみずみずしい果物。棘の生えた皮をむくと中から白い果肉があらわれる“ンゴ”。球形で表面は紫黒色で果皮は厚く、種子のまわりにみかんの房のように並んだ白い仮種皮があり甘味と酸味があるマンクート。果肉がピンク色で甘酸っぱいトゥーリアン。ソムオー。・・いずれもタイ語の呼び名だが父は果物が好きだ。

それにしても、キリスト教の神学大学を卒業した父が、なぜ小乗仏教の国タイへ行ったのか。父の信じている神様は、神さまの側から奇跡を起こすことが本当にありうるのか? 奇跡のことで、奉仕と祈りの生活をしていたある村の修道女たちが、食べる物がまったくなくなって困り果て、一人の修道女が真剣に神様に祈ったところ、釜や鍋には一人分のご飯と味噌汁しか残っていなかったのに、その器の底から次つぎとご飯や味噌汁が湧き出してきて修道女たち全員が飢えを凌ぐことが出来たという話を何かで読んだことを思い出す。 

人は私欲を完全に捨てて、他人のために祈ったとき、それが主の御心に叶っていれば神は奇跡を起こすのだろうか。・・

徹のマンションのベランダでは、ゼラニウムが一年中交互に花を咲かせてくれる。母に持って行けといわれてビニール袋に入れて運んできたものだ。

人生は予期せぬことが起こります。現在の幸せに気づかぬことがあるものです”なぜか最後に父から届いたメールの文が浮かんできた。物が数段安いからといっていたが、何をして暮らしているのだろうか。

四十五、六億年前、星が地球に水を運んだ。一億年後ハワイは北海道にくっつくとテレビで言っている。

来週は父のいるバンコクへ旅立つ。